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「マイ・ブロークン・マリコ」感想〜友人の遺骨を抱えた旅で〜

*ヘッダー画像は、「Pixabay」を使用

評判がよかった、平庫ワカさんの漫画『マイ・ブロークン・マリコ』を読みました。

いやー、確かに、近年私が読んだ漫画の中でも、これは特別心に残る作品でした。

この『マイ・ブロークン・マリコ』の簡単な紹介と、感想を書いていきたいと思います。


シノイ(シノイトモヨ)はちょい柄が悪めで、ざっくばらんな性格のOL。ある日、食堂のTVから流れるニュースで、彼女は友人であるマリコの死を知ります。

友人であるマリコのために、マリコの悪親から遺骨を奪い取り、そのまま仕事も全て放棄して、マリコの遺骨を抱えて旅に出るシノイ。

マリコの遺骨を抱えたシノイのロードムービーのような本作
その旅の途中で度々はさまれるシノイの回想で、マリコの生前の姿を見ることができます。そして、シノイにとってマリコとはどんな存在だったのか、なぜマリコは死んでしまったのかが徐々に示唆されていきます。


*以下、ネタバレあります!!!


マリコは「自宅マンション4階のベランダから転落死した」ことがニュースで報じられますが、これが自死であったのか、何らかの事件性があるのかは作品の中では明らかにされていません。ただし、「大量の睡眠薬を服用していた」ことなどからすれば、自殺であった可能性は高いと言えそうです。

シノイも、マリコとは「先週遊んだばっか」「何もそんな感じじゃなかった」と独白しています。


マリコの家庭環境は悲惨と言っていいものでした。マリコの父親はろくでなしで、小学校の時に母親が出て行ってしまいます。父親は中学校のマリコを虐待し、暴力を盾にして奴隷のように扱い、更に高校生になったマリコを強姦します。

シノイはそんなマリコの事情を知っていながら、彼女を助けることができなかったという後悔を抱えてきました(シノイは助けようと彼女なりにできることをしていたようですが)。
大人になったシノイは、マリコの死を知り、「今度こそ彼女のために何かしよう」と決めて、包丁片手にマリコの実家(安アパート)へ乗り込んで、正に命がけでマリコの遺骨を奪還(?)します。
そこから、マリコの遺骨を抱えて、マリコとの思い出を探しにいく、シノイの旅が始まります。


ところで、親に虐待されて育った子供は、自罰的で、自分を好きになれず、何でも自分のせい・自分が悪いと思ってしまいがちだとはよく言われることです。
そして、そんな考え方は、DV男などを引き寄せて、更に自分を卑下していくという悪循環にはまりこむ人も少なくないようです。
他方、虐待された経験から、自分も他人に対して攻撃的になる子供もいるようですが、自分を好きになれないのは同じで、攻撃の対象が自分になるのか、他人になるのかの違いなのかもしれません
(自分の印象としてはですが、攻撃の対象が自分になるのは女性が多く、他人になるのは男性が多いようです)。

マリコも、常に自分を責めて生きてきました
高校になる時に戻ってきた母親がまた出て行ってしまったのは、「自分が父親を誘惑した」せいで父親が「わたしに手を出しちゃった」(そんなはずはないのですが)からだ、と自分を責めて、
大人になった後も、彼女の男性観は「わたしなんかを好きになってくれるんなら…どんな人でもわたし我慢するよ」というものです。

マリコは当然のように愛情に餓えていて、シノイに対しても「わたしから離れたら、わたしを嫌いになったら死んでやる」と脅すこともあったと回想されています。

マリコは、父親から逃げることは子供ゆえに難しかったとしても、DV彼氏から暴力を受けてもまた彼のところへ戻ってしまったりと、傍目に見れば、自ら望んで自滅的な行動を取っているように見えます。
彼女が精神的に追い詰められていくのは、彼女自身にも責任の一端があると、そんな風に考える人も少なからずいるでしょう。


マリコが「自分が悪い」と考えるのは、自分が悪かったことにすれば、自分がひどい扱いを受けることを一見正当に説明できるからです。そうすれば、自分が愛情をもらいたい人からひどい扱いを受けることを説明することができる。
そんなマリコに対して、シノイは、

あんた何も悪かない
あんたの周りの奴らがこぞってあんたに自分の弱さを押し付けたんだよ…

と、もはやこの世に存在しないマリコに伝えます。

大人から子供へ、親から子供へ、男性から女性へ(逆もあり得ますが)。愛を軽んじる者から愛に餓えている者へ。力を持つ者から持たない者へ。
人間は自分より弱そうな人へ自分の弱さを押し付けようとします。それは押し付けられる人が悪いわけではない。

弱さを押し付ける人は自分の行為を正当化するために、押し付けられる人は自分がひどい扱いを受けることを正当化するために、「ひどい扱いを受ける側が悪い」ということにしようとします
この巧妙な罠については、当事者となっていない者からは中々理解できない面も多いでしょう。
そんなことはこの世の中に溢れています。実の親から子供への暴力、性的虐待、恋人間の暴力、夫婦間の暴力、学校内でのいじめ、会社内でのいじめ。

他人の弱さを、暴力や性的虐待という形で押し付けられ続けてきて、そこから抜け出せずに、そのまま自分の人生を終わらせてしまったマリコという存在は、今の社会にある現実です。


でも、作中で繰り返し語られるように、シノイにとっては、マリコは「一番大切」で、命に代えても守りたいような存在だったのです。

あたしには正直あんたしかいなかった

のです。

そんなシノイという存在がありながらも、マリコは結局死を選んでしまった。これは一見、シノイはマリコを救うことができなかった、とも言えそうです。
けれど、マリコにとって、シノイの存在は、唯一自分の生を実感できるものだったのであり、物語のラストが示唆するように、マリコは十分シノイに救われていたのだと、私は感じました。

シノイは

せめて一緒に死んでくれって
何で言ってくれなかったんだ…!!!

と叫びますが、マリコはシノイが大切だからこそ、シノイを巻き込むわけにはいかなかった、のかもしれません。自分がマリコに依存していることは自覚していたと思いますしね。

そして、痴漢に追われている少女をマリコに重ねたシノイが、マリコの遺骨で痴漢を撃退したことは、マリコがシノイを通じて自分と同じような目に遭いそうになっていた少女を救った瞬間でもありました。


また、本作は、バランス感覚のよさ、と言いますか、悲劇もあり同時に救いもある、という世の中を見事に描いていますよね。

マリコの父親はろくでなしの犯罪者であり、実の子供に自分の弱さを押し付ける、最悪と言っていい部類の人間ですが、マリコの遺影を見て涙を流す描写から、幾ばくかは存在した実の子供への愛情も、描かれていたり(愛情があったからといって彼の行為が正当化されるわけではないですが)、
ろくでなしや犯罪者の男が出てくる一方で、シノイが旅で出会った謎の青年(「ナリタ商店」の「マキオ」くん)が、見せる数々の優しさがあったり、
ろくでなしのマリコ父と再婚した女性の懐の深い優しさがあったり。

マキオくんの台詞で、

もういない人に会うには
自分が生きているしかないんじゃないでしょうか…

というものがありましたが、自己破滅的に生きざるを得なかったマリコの人生は、今後もシノイが生き続ける限り、シノイの中で確かに存在し続けるのでしょう。
そして、シノイのマリコに対する、友情・愛情もまたシノイの中で生き続けるんだと、辛い現実への怒り・やるせなさを描きつつも、そういう救いも残してくれた作品でした。

現実に沢山存在する「マリコ」たちへの愛や、「彼女たちを追い込んだもの」への怒り、が詰まった作品だと感じました。

『マイ・ブロークン・マリコ』に収録されている短編『YISKA』もそうですが、この作者である平庫ワカ氏の作品は、構図や全体的な雰囲気、台詞回しなどが一つの映画を観ているような錯覚をする作品ですね。

素晴らしい読書体験でした。


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