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さよなら、ロールモデル

「じゃあ、また…できれば半年後に」
そういって出国ゲートをくぐる夫を見送った。

2020年12月23日、空港。
夫はシンガポールへ旅立った。

わたしも、半年後に後を追うのだ。


2020年1月1日、私はニートになった。

大きな希望を胸に掲げて転職した先で、かんたんに言えば社風にフィットできず年末で会社をやめた。
転職前の仕事は、順風満帆といって良かった。それなりに大きな成果をだし、それなりに評価されていた。きっとそのまま勤めていたってよかった。決して会社が嫌になったわけではなくただただ「もっとこの仕事でキャリアアップがしたい」と思って、新しい業界に飛び込んだ。

新しい会社ではもっと新しいチャレンジがしたいと思っていたけれど、物事の進め方やスピードのギャップに加え、連日の深夜残業によって打ちのめされる日が続いた。

あのときのわたしは消しゴムだった。
ただ、これまで積み重ねてきた経験を吸い取られるような。
新しい発見はなく、こなすだけのような。
いったい誰の方を向いているのかわからないような。

『なんのために働いているのかな、わたしは』
そんなことは何百回も思った。

休日、楽しみにしていた予定があったのに
「あ、ダメだ…今日は笑えない」
そう思った瞬間に崩れた。
この先、会社にいる未来が見えなかった。
1年持たずに辞めるなんて、これまで頑張ってきたキャリアに傷をつけるのか、とか、思うようにいかないことなんて沢山あるのに逃げてるだけじゃないのか、とか、悲しいとか悔しいとか怒りとか不安とか、いろんな感情があったけれど、まずは休みたかった。

私が休むという選択ができたのは、年末にプロポーズをされ、結婚が決まっていたことが大きかったと思う。

「もう、仕事やめようと思う。」と話すと、
「良かった、心配だったんだよ。」とだけ彼は言った。
これまでどんなに仕事の話をしても辞めろとは決して言わなかったけど、心配をかけていたんだなとその時初めて知った。

わたしは12月末付けで辞表を出し、
それから丸々3ヶ月間、こたつの中にくるまって過ごした。


2020年3月、チラつく海外行き。

「赴任先がシンガポールになりそう」と彼が言い出したのは、まだまだ寒い春の頭だった。
前々から海外赴任を希望していたのは知っていたので、シンガポールかふーん、マーライオンしかわかんないなぁ、と思っていると、ごめんと謝る声が聞こえた。

「シンガポールに行くと赴任期間が短くても5年…もしかしたら7~8年くらいになるかもしれない…。」

思わず固まった。
もともと赴任期間は2年と聞いていた。なのに7年も?
生活拠点を築くのが海外になるの?
子どもだってほしい。
もし子どもを授かったとして、知らない土地で誰の手も借りずに子育てができるの?教育は?
そんなに日本を離れるなんて家族はどうなってしまうんだろう?

沢山の疑問や不安が洪水のように襲ってくる中で1番に出てきた言葉は
「私のキャリアはどうなるの?」
だった。

休みたいと思って、仕事をやめた。
でもいつまでも休んだままではいたくなかった。
わたしは、働いているわたしが好きだった。
チームで何かを作ったり、がむしゃらにがんばったり、誰かに感謝されたり、自分を誇らしく思ったり。
そういう瞬間は日常でももちろんあるだろう。
でもそうじゃないのだ。
働くことはわたしにとって自己表現の1つで、
わたしは働いてるときのわたしがとびきり好きだった。


働き方が多様化している、というのは確かに事実だ。
自分のやりたいことを見つけ、新たな働き方を模索する人たちはいる。

それでもわたしはただ『普通』のキャリアをたどってきた人間だ。
大学まで進学し、安定した企業に務め、会社員としての職務をこなす。
ちょっと枠組みを超えることはあっても、大きくはみ出すことはない。
普通の中のちょっといいくらい、ただそれだけ。
その現実を「長期海外行き」によって目の当たりにした。

海外で就職できるような語学力もないし、
これまでのキャリアだって日本の外では役に立つのかわからない。
5年以上の長期に渡って穴の空いた履歴書をぶら下げて、通用するイメージはわたしの中に存在しなかった。
ましてや「戻ってきていいよ」なんて言ってくれる職場は失ったばかりだ。
何もない。そう思った。

わたしにできるのはせいぜい整地だ。
荒れた土地を整えて、少しずつ種を植える事はできる。
でも道がないところを草を薙ぎ払って進むこととか、新しい拠点になるような場所を作ることなんて、できない。
自信なんて欠片もなかった。

先の見えない、誰の気配もしない場所に、ひとり置き去りにされたような気持ちだった。


なくしたときにツラいものって、なんだろう。

それからただただ悩み続けた。
これから、どうすべきなのか。どう生きるべきなのか。
そもそもこんな覚悟で、結婚してもいいんだろうか?
ついていかずに日本で再就職して働き続けるのはどうだろうとも思った。
でも、何年も離れていたらライフプランは…?

仕事、結婚、子育て。
幸せの絶頂とも言えるはずの婚約期間に、なぜかアラサーの女性が悩むことランキングの上位3位までが全部押しかけてきてるじゃないかと、自分の人生を恨めしく思った。
全部叶えたい。どうしたらいい?
どれかを諦めるしかないのかと、何回も泣いた。

日本で働き続けるという「普通」のキャリアプランと、
彼との時間をともにする「普通」の新婚生活は両立し得ない。

ぐずぐずと何回も泣きながら2人で話を重ねて
結局わたしは彼を選んだ。


仕事を続けていた頃、終電に乗る前のホームでの僅かな時間、彼に電話するのが日課だった。
いつもの他愛ない話の間に、ふとぼやいた。
「もうさ、私、毎日きれいもの…例えばピカピカの石ころとか道ばたに咲いてるかわいいお花を拾って、誰かに届けるような仕事がしたいよ。」
電話越しに笑い声が響いた。
いいなぁその仕事、といったあとに
「それってすごく文化的だね」
と彼は言った。
自分でもバカだなと思いながら言ったことだったから少し恥ずかしくなって、
「でも毎日石ころ拾ってたら、すぐに部屋がいっぱいになっちゃうから、定期的に捨てないといけないのは面倒くさいかぁ」
と誤魔化すと、絶対に捨てないでとっておくという。
「だって、それは君が価値があると思って拾ってきたものでしょ?
それは大事なものだから、全部とっておく。」

その瞬間に気がついてしまった。
ああ、そうか。
この人は私の感性を守ってくれる。
くだらない発言だとバカにしたりしない。
そして、わたしの中の文化をこんなにも大事にしてくれるのか。

通話を切って乗り込んだ終電の中で、私は泣いた。
こんな風に優しくされたことがなかったから。


あのとき確かにわたしは辛かった。
でも、ツラいとは言わなかった。毎日どんなに忙しくてもヘラヘラと笑って過ごしていた。事実辞める直前までわたしの不調に気付いていた人は殆どいなかった。

そんな中で水をくれるみたいに当たり前に寄り添ってくれたのは、
確かに彼だった。

だからわたしは「普通」のロールモデルを捨てた。


2021年1月、地図は自分で書くしかない。

出国ゲートをくぐった彼が見えなくなるまで手を振り続けたあと、
一人になった途端にぽろりと涙がこぼれた。

この12月にはわたしのビザが下りなかったのだ。
彼の会社の規定もあり、シンガポールに行けるのは早くても半年後。
先の見通せない状況の中で、本当にあとを追うことができるのかも正直わからない。

それでも、今はできることをやるしかないなと落ちた涙をふいた。

これからどうしよう。
どんな風に生きていこう。
わたしの前に立つ『ロールモデル』はもういない。

道なき道を進むのは、難しい。
それでもわたしには帰る拠点ができた。
違うと思ったら、引き返してまた別の方向に進めばいい、と今なら思える。

なんだかんだダラダラと家にいるかもよ、といったわたしに
「君なら絶対に、自分がいるべき場所を見つけるでしょ!」
とあっけからんと言った脳天気な彼を思い出す。

左手にはめた指輪をそっとなでて、わたしはこれからの半年の計画を練り始めた。

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