Oo創刊号2020年12月
おいしいから遠く離れて(1) 原田泰稔
2016年に日本でもサービスを開始したオンラインのフードデリバリーサービスUber Eatsと政府がコロナ渦の飲食業の支援策として始めた需要喚起策go to eat は記憶にも新しい。2020年のいまに至るまで食に対する話題はたえない。新型コロナによって外食することも難しくなっているが、ほんの数か月前まではそんなこともなかった。僕たちの日常にはいつもうまい、安い、早いが紛れ込んでいた。
うまい、安い、早い。この3つの基準から人々は当分距離を置けそうにない。ファストフードの台頭から月日の経った今もその影響力は強まるばかりだ。外食に対するスローガンのような価値判断が浸透したのはいつ頃だろう。その理由の一端はインターネットを介したとある星にある。
2000年代初頭、ローレンス・レッシングの『CODE』に始まり日本でも盛んに議論されたアーキテクチャ論以降、莫大に増えた利用者数とともにインターネットは多くの声を拾い上げることに成功した。それは一方で便利になりつつも、同時にあたらしい問題を生み出した。その例のひとつに食べログがある。
食べログは2005年3月にサービスを開始したグルメレビューサイトで、全国のレストラン情報とユーザーの口コミが掲載されている。口コミと付随してユーザーが店を五段階の星で評価するシステムがあり、星の平均値をお店の評判として全国のレストランのランキングがつくられる。星の数は具体的な数値として小数第二位まであらわされ、ジャンルや場所を差し置いて店名と並んでどの情報よりも大きく表示される。
そのデザインゆえに店名と星の数が並んで話題に上がることも多い。僕も食べログを利用するとき口コミはほとんど読まない。星の数で和食を食べるか中華を食べるかまで決めてしまうことも多い。ユーザーの評価を五段階の星で見せることはいっけん便利だが、そのわかりやすさゆえに「数」が絶対的な評価基準になってしまった。高級店からチェーン店まで一概の数としてユーザーの声で評価される。その悲惨さはamazonのレビュー機能やYoutubeやSNSのいいねからも想像できるだろう。じじつ、粗悪な口コミと不当な星の低さから店側と食べログ側がトラブルになったことも多々ある。ユーザー評価は僕たちの飲食店に対する接し方を画一的なものにしていまった。
ではどうして食べログのユーザー評価はここまで強固なものとなったのだろう。ひとことでいえば、できる限りおいしいものをたべたいという直接的な欲望と結びついているからである。
おいしいものを食べるというのは快楽に近い。それは精神科医フロイトが提唱した本能的かつ無意識的な欲望の概念であるエス(Es)を引き合いに出さなくても、空腹のときに頬張るご飯の一口目を思い出していただければ容易に想像できるだろう。食事を食べ終え満腹になったときの精神の満たされる感覚にはなんともいいがたいものがある。ここでいっているような即物的な、今ある欲望を満たすことはそれほど難しいことではない。ファストフードを食べれば多くの人がそれなりに満足できるだろう。だが、それは食のもつ豊かさに対してあまりに不釣り合いで貧しい評価軸で接している。
味や香り、見た目といったように僕たちがおいしいと感じることは複合的なものだが、そのひとつひとつは個々の人がそれぞれもつ感覚に基づいている。人はその複雑さを覆い隠すようにおいしい/不味いという言葉で料理を語る。
けれども、食のもつ豊かさはけっして食べる経験だけではない。長い歴史とそこに通底する経緯と過程は決して無視できない。料理の発明にはその土地と時代が深く結びついている。そのことを顧みないまま、おいしいという衝動に突き動かされていれば、豊かな文化が先細りしていかざるおえない。この流れは今後も続く。多くのひとはそのことに疑問を持つこともないだろう。だけど、僕は今ある文化を失いたくはないし、その楽しさをひとりでも多くに共有したいと考える。だからここではその手段を模索していく。
吉野家のスローガンであるうまい、安い、早いは1970年、1980年、2000年代と並びが変わってきた。それは戦後日本の遍歴としてたびたび語られる。さらに視野を広めよう。哲学の祖であるソクラテスは人々と酒を囲む中でその知の体系を共有しつづけた。ソクラテスを広めたプラトンもその席には何度も参加している。会食は政治につきものだし、家族もまた食卓を囲む。その一つ一つが、いかに食が身の回りを取り囲み、人と人の関係を変えてきたかを示してくれている。
実際の話、多くの人が食事を通して関わりを深める。食事を通してはじめて僕たちは人と向き合う。香りにつれられて店をこっそり覗いてしまうように、食べることが知らないところへ連れていってくれることを僕らは自ずと知っているのだ。
前菜 レプンカムイ
■オードブル
スープから始まるフルコースを彩る軽い料理のことをオードブルと呼ぶ。日本では前菜を指す言葉だ。作品の外と直訳され、これから始まる作品への食欲を増す効果を、我々に与える。しばしば海洋は、「スープ」と称される。有機物を濃縮したスープ、多くの元素を含む化学のスープ、プラスチックのスープなど、その呼び名は多岐にわたる。じつは海洋には未だに解明していない事象が限りなく多い、これ程身近にあるにも関わらずほとんどの研究が発展途上という分野だ。無限の味を秘めた、未知なる「スープ」である。
海洋をスープとするならばフルコースは現在の地球における生物、自然を中心とした循環のすべてと捉えることができる。では、フルコースの一番最初にある「オードブル」とは何か。大昔に地球に飛来した隕石、地球を形成していった気候、大地を作り出したマグマであろうか。想像は尽きないが、この「スープ」を理解することがそのオードブルを知る手掛かりになるだろうと私は確信している。
私は大学で海洋、ここでいうスープについて学ぶ学生である。主にスープの具材ともいえる生物資源などについて学んでいるが、オードブルの手掛かりを探すための探査機にも関心を寄せている。本誌では、海洋に関する記事を主軸として、自らの興味の赴くままに様々な分野を担当したいと考えている。今回の記事では、海洋を食としてのスープとして見た時に、この地球が一種のフルコースとして考えることも可能であること、そしてそれらの理解がオードブルへとつながることを述べた。このように、日々の生活の中でも、視点の変化、あるいは偏見で物の表現が変わることは皆さんも経験があると思われる。この変化、偏見を体感していただき、食に対する考え方、表現の変化を生み出すことを意識しながら、本誌「Oo」を読んでいただきたい。拙い文章ではあるが、どうぞお楽しみください。
コラム:人生のフルコース
フルコースと聞くと、2008年から2016年まで連載された島袋光年の漫画『トリコ』を思い出す。「美食」が流行となったグルメ時代。世界中に溢れる未知の食材を探し求める「美食屋」は、その中で自身の人生のフルコースを決める。主人公のトリコもまた、自身の求める人生のフルコース、未知なる食材を求めて、食の争奪戦へと身を投じていくグルメバトル漫画である。
私は連載当初から最終話まで欠かさず読んでいた大ファンだが、この作品の凄い所は、出てくる食材たちの詳細な設定と、姿である。少年漫画特有のファンから集められた食材たちを含め、本作には莫大な数の食材が登場する。その多くに味の設定や特殊な調理法、戦闘能力などの多彩な設定が付随している。特に、その歯ごたえの効果音や食べた感想、効能の表現方法などは感心した記憶がある。読者も世界に引き込まれる見事な表現であったように思う。私も、そんな世界で人生のフルコースと呼べるおいしい料理を食べたいものだ。
冬虫夏草(1) グリニャンコ
初めまして!
皆さんは食事に対してどの様な印象を抱いていますか?
筋肉とたんぱく質に代表される栄養を数値としてとらえる、エネルギーを得るための手段。あるいは健康ブームの影響にみるような肥満に繋がるというマイナスのイメージでしょうか。この数年でトレーの裏についている食品表示ラベルをみることに何ら違和感もなくなりました。ただ、私は食事が単なる栄養補給の域に収まってしまうのは非常にもったいないことだと思います。
食事は人生を豊かにするための手段になります。美味しい食事は辛いことを忘れさせてくれますし、デートや商談などで美味しい店が選ばれる様に緊張を解してリラックスさせる効果もあります。と、今気付きましたが自己紹介がまだでしたね。私の名前はグリニャンコです。岡山大学で学生をしており、有機化学を専攻しています。また、Twitterでは“グリニャンコさん”と名乗って活動しています。食べることが好きで、特に好きな食べ物は寿司や刺身,漬けなどの生魚を使った料理です。
次に私が今後書こうと思っている記事についてお話させて頂きたいと思います。正直、グルメ店に関する記事や情報は溢れかえっていますし、見た目の華やかな料理はInstagramにありふれています。「○○店の〇〇が美味しい!」というのは記事としては面白いものの、読者のほとんどが食べることが出来ない様な紹介の仕方はしてもしょうがないと思っています(多少はブレるかも知れませんが...)。私がOoを始めたいと思ったきっかけの一つとして昆虫食が日本人の食卓に普通に並ぶ世の中にするための活動を行いたいです。昆虫食を虫というだけで特別視していては昆虫食が普通に食卓に並ぶような日は永遠に来ません。そのため昆虫食もそれ以外の食事も味に着目して評価したいと思います。大変長くなってしまいました。次回以降も遊びに来て頂けると嬉しいです。
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