知覚が先か、注意が先か、あるいは同時か
今年は完璧主義をやめて、不完全でも文章を投稿しようと思っている。 目的を創作から内省に変えることで、文章を書くことを習慣化できるのではと思っているわけだ。 そんなきっかけでマガジン「知覚と認識の狭間で」の連載を始めた。 ふと、こんな疑問をいだいた。 「知覚と注意ってどっちが先なんだ?」 というわけで今日は、知覚と注意をテーマに考えてみる。※考えただけで調べたわけではないので注意。
注意と知覚の定義
まずは、知覚、注意を定義してみる。すぐに思いついたのは、知覚とは感じること。注意とは意識を向けること。感覚器を通じて入力されたものを脳内で処理するまでが知覚で、主に無意識化の働き。一方、注意は意識的か無意識的かに限らず、ある情報や感覚に気を向ける(向いてしまう)働きだと考えることができる。 こう考えると、無意識下で知覚は行われ、注意が向くことで意識化するので、知覚が先なのは順番は明らかな気がする。 ただ、選択的注意のように何かに意識的に注意を向けることで知覚されることもある。例えば、視覚情報ではなく聴覚情報に注意を向けた途端、これまで聴き取れなかった音が途端に聴こえることがある。これを読んでいるあなた(がいることを仮定して)も一度目を閉じて音に注意を向けてみてほしい。すると、微かな雑音や外音に気がつくのではないだろうか。 こう考えると、注意を向けることで感じられる情報もあるような気がする。つまり、「人間には無意識のうちに感覚器の感度をコントロールする、つまみのような機能があるのではないか。」と考えることができるような気もする。 ここで改めて、本文は考えただけで調べてはいないので、途方もなく間違っているかもしれない。もう既に証明されているかもしれない。奇跡的に、斬新で驚くような仮説を生み出しているかもしれない。 そんなことは調べればわかることなので、今は無知を恐れず、盛大に妄想を続ける。
3つの仮説
妄想をふくらませるために形式的に3つの仮説を用意する。
知覚した情報に、注意を向ける(有力)
注意を向けたものに対して、知覚する(無理がありそう)
知覚と注意は同時に起こり、注意の分配により知覚が強化される
知覚 → 注意
なんとなく、これな気がする。だって、外界はコントロールできないから。人間の脳は、音や光を通して世界を認識しているわけで、音や光などは知覚する人の意識に関係なく入力される。入ってきた光や音を過去の記憶を元に「面白そう」とか「危ない!」と判断して注意を向けていると考えるのがふつー。
注意 → 知覚
この仮定は無理がある。入力されるものはあらかじめ気がついていないことが多いから。例えば、急に後ろから「ワッ」と驚かされたときを考えてみる。注意が先だという前提に立つと、後ろからくる音に注意を向けている(注意)→ワッと音がする(知覚)→驚く(認識・行動)となるが、直感的にはありえない。多分、ワッという音が聞こえる(知覚)→聴覚に全神経を向ける(注意)→状況を理解して驚く(認識・行動)のが自然だと思う。 一方で、注意を向けることで知覚されるように感じるのも事実ではある。このあたりをスッキリさせたい。そこで、仮説3
知覚=注意 >> 知覚
そもそもどっちが先という問いが間違っていたのかもしれない。例えば、デフォルトでは注意というのは全部の感覚器に均等に分配されているとする。知覚には閾値のようなものがあり、閾値を超えると注意も同時に向くようになっている。また、注意の分配をある感覚器の割合が増えるように意識的に再分配することで、知覚の閾値は下がり、それまで感じなかった光や音が聞こえるようになる。つまり、注意と知覚は相互に関係していて、意識的な注意には無意識的な知覚の閾値をコントロールする役割があるのではないかということだ。 この仮説だと選択的注意のようなものも説明できる。注意を耳に多く分配することで、より小さい音を聞き取れるようになる。
とまぁ、ここまで妄想を続けてみた。なんか面白かったので、実際にどんな理論とかモデルとかがあるのか、今度調べてみよー
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