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母10年目

息子が10才を迎えた。

世間では10才を1/2成人式というの耳にする。
フォトスタジオでも、その記念に写真を撮る方も割といるみたいですが、
息子はこれまで、いろいろな節目で写真撮影をしてきて、年を追う毎に苦手に… 
親のエゴに付き合わすのも申し訳ないし、何よりお金もかかるので、
5才の七五三詣りの撮影で、息子メインのスタジオでの撮影は終わった。
でも、妹が生まれて、昨年は3才の七五三詣りの撮影をして、兄としてゲスト出演してくれた。やはり、笑顔は引きつっていたが、妹と私のために参加してくれて、ありがとう。

10才は感慨深いと思った。
子供が無事に10才を迎えた安堵と、10年をかけて、やっと息子を心から愛せる、大切に思えるようになったと思う。
初めての子供。自分とは違う性別。
そして、息子はとんでもなく夜泣きがひどかった。
未だに、思い出したくないくらいに。

初めてづくしに加え、当時は夫婦仲は最悪だったし、なんせ生後半年間は夫の実家で、私と息子が暮らす別居生活。
夫は仕事で忙しく、実家との折りあいがよくない私にとっては、
今思うと良かったことではあるが、
夫は、その半年間、数回しか実家を訪れることはなく、たまに私と息子が家に帰っても、家はそこそこ汚いし、子供が暮らせる生活環境を整える気は一切感じなかった。そして、泊まって帰ろうとすると「(実家)帰ったほうがいいよ」 と言う。
そんなことを言う夫、
そんなことを言われて怒りを感じながら、産後クライシスで正確な判断が出来ず帰ることを選んだ私、
今考えても、ふたりともどうかしていた。
特に夫がね。

同時、朝の情報番組で産後クライシスについて取り上げられていて、感心を示す夫であったが、自分の妻が「帰りたい」と訴えても、無視してきた。

半年後に、家に帰ってからも、結構酷かった。
仕事が忙しい期間は、決まって夫の実家に息子と一緒に泊まらされていた。
車のない私は、片道1時間電車でベビーカーに息子の荷物と自分の荷物をパンパンに詰めて、移動していた。
「私の家はどこなんだろう」
と、ただただ虚しかった。

やがて、精神の限界を迎えて、義母から自分の実家で静養したほうがいいと言われて、実家に帰省。
折り合いが悪いと思っているのは、私の方だけなので、両親は温かく迎え入れてくれたように思えた。

しかし、やはり折り合いは悪いのだ。
私が、息子の世話だけしか出来なくなって、いよいよやばくなって、
夫婦で話合うことになった。電話で。
私は、自分の辛さへの理解が欲しかったが、夫は一切わかってくれず、
むしろ、自分の誕生日すらお祝いしてくれなかったことへの怒りをぶつけてきたことは、一生忘れない。
それ以外の、非情も。

当時、私は専業主婦だったので、
悔しさと悲しさの中、夫に謝罪して家に帰った。
母は「もし、離婚になったら〇〇(息子の名前)は夫さんの家の跡取りだからね!!!」
と語気を荒げて、私に告げた。
今母に、そのことを言ってもきっと「私、そんなこと言った?」
と、微塵も自分は悪くないという態度で言うだろう。

息子との10年というより、夫婦でのスタートが酷すぎた。

息子の成長は、そんなこんなの私的には、コンディション最悪の中はじまり、息子の夜泣きは2才くらいまで続いた。
毎日、息子と何をしようかと思いながら過ごした。
公園や児童館、子どもセンターによく行った。

そして、気がついた。
「あれ、しゃべらんな」と。

発語のおくれ。
悩みに悩んだ。なんなら、昨年まで。

そして、今は、もう大丈夫と太鼓判は押せないけど、
昨年から急に成長が著しかった。
やっと、息子の個性と性格を受け入れる私の心の器が、
10年経ってやっと出来上がった。

息子は、私とも、夫とも、全然ちがうのだ。
予想だにしない、行動や思考、それでも、まだ愛くるしい姿を見せる息子を
心から愛せる自信が今やっともてた。

息子と6才下の娘が、仲良く遊ぶ姿に
目を細める私。
私を、母にしてくれてありがとう。

なお、夫には、息子が5才くらいの時に、それまでの全てをぶちまけて、
大いに傷ついてもらった。

たまに、まだ当時の恨み節を言う時もあるが、
夫は、かなり反省しているのは、手に取るようにわかる。
また、私も、娘の出産を機に、社会復帰して、今に至る。

共同親権が日本でも認められる。
夫にぶちまけた時以来、離婚は常々選択肢にあるので、
もし、そうなったら、是非、共同親権をもって
私も夫も、子供たちの親であり続けたいと思う。



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