バンドマンのエレジー5

■バンドマン、こんなの聞いてない■

筆者が初めて全国ツアーというものを経験したのは2011年の夏の終わりからの事。
詳細は後日書く事にするが、所謂「ツアーバンド」というものに激しく憧れたきっかけがあった。
年間100~200本の過酷なライブツアーをこなす彼らの中には機材車であるハイエースに乗り込み高速道路の料金をケチるために下道、つまり一般道路を走行して途方もない距離を越えてくる猛者達がいる。
彼らは炊飯器とポットを持ち運びライブハウスの水道水で、時にはトイレの洗面所の水で米を炊き湯を沸かし、ケースごと買ったお徳用のカップラーメンやふりかけをおかずに食事をする。
風呂に入れない時は公園の水道で頭を洗い衣装を洗濯する。
ろくに金がないが打ち上げには出なければならない。その日の運転役の人間は早めに車に戻り仮眠を取り、打ち上げ出席者はしこたま酒を呑みライブで消耗し疲れた体に鞭を打ち共演者やライブハウスのスタッフ達と杯を交わす。なんともタフなのだ。
私はそんなバンドマン達の事がどうしようもなくカッコ良く思えた、激しく嫉妬を覚えるほどに彼らが羨ましかったのだ。
しかし、実際にそんな世界に飛び込んでみて感じた事は、「こんな惨めな気持ちになるなんて聞いてねーよ」という内容だった。

とにかくツアーというモノに出てみたかった私はとにかくライブをやりまくっていた。
ライブのオファーは日程が被っている場合以外ほとんど受けていたしとにかく本数をこなしていくことがアイデンティティであった。こうしていれば自分が憧れた場所に近付けると本気で思っていたのだ。
たかだか3年目にしてワンマンライブをやってみてはどうか?という当時よく出ていたライブハウスの店長の言葉に、迷う事なく首を立てに振ったのもそのバイタリティーがあったからであろう。
元々その年にリリースを行いツアーに出るつもりでいたから調度良い、その日をツアーのファイナルに設定してやたらめったらライブを入れていった。
ライブで知り合ったバンドがよく出ていたり名前をよく聞くところや、先輩に紹介していただいたライブハウスに片っ端から連絡を入れてトントン拍子にあれよあれよと30本を越えるツアー日程が出来上がった。

とは言ったもののツアーを組むためのノウハウもなく行く先々の土地から土地への距離感もろくにわかっていない状態で後々の事もちゃんと考えた日程を組む事など当時の私には不可能だった。今でもそんなに上手くいっている訳ではないが。
本来なら円を書くようにだったり、
下って何本かやって戻って来つつまた何本かやってというのが理想的であるにも関わらず、行ったり来たりの電車移動。
当然必要以上の電車賃とバス代がかかり、ツアーも半分を過ぎた頃には財布の中身は悲しくなるほど少なくなっている。CDの売上だけで生活しネットカフェで寝る。時にはライブハウスの床で、時には現地で出来た友達の家にその日が初対面だと言うのに泊めてもらったりもした。

更にライブの本数を稼ぎたいがために地元のライブもポンポン決めてしまっていた私、ただでさえ人気がないのに僅かな集客をツアーファイナルワンマンライブに向けて集中しなければならない。当然お客など大して呼べるはずもなく、チケットノルマを完売出来ず支払いに追われる。
これだけライブをやってそもそもほとんど家にいないのだ、バイトなんてまともに出来るはずもなく、ツアー終盤戦に差し掛かった際の給料明細には「¥13,400」と書かれていて目を疑って二度見した事は今でも良い思い出にはなってくれない。どうしたものか。

食事などまともに摂れるはずもない、1日2食食べれればかなり良い方で電車賃と宿泊費を捻出するためCDが全然売れなかった日はネットカフェのドリンクバーのコーンスープか味噌汁で腹を満たしていた。
そんな翌日の会場は栃木県宇都宮市のライブハウス。空腹に耐えかねて近所のドン・キホーテで大きめのパンを一つ買った。
私と同じようにツアーで宇都宮まで来ていたバンドが食事から帰ってきて楽屋でこう言い放った。

「なんかさ、宇都宮の餃子もう食い飽きたよね」

皮に包んでパリっと焼いてやろうかと思った、羽までバッチリ付けて見映えも良くして駅前で売ってやろうか。
現実なんて大体こんなもんである。こんな話はまったく聞いていなかった。いや、聞いていたかもしれないが当時の私にはそれすらカッコ良く見えてしまったのかもしれない。

そしていよいよ迎えたツアーファイナル。
お客はどれ程入るのだろうか。
もしこれで一定数以上入らなければ不足額は自腹だ。もう私にはそんな金銭的余裕がない、頼む、もう誰でも良いから、見に来なくても良いからチケット買ってくれ。
せっかくのツアーファイナルにそんな心配ばかりで不安に押し潰されそうな音楽的にも未熟な人間が良いライブなど出来るはずがないのである。しかし財布は押し潰す必要もないほどにペッチャンコ。出来ればわかってあげてほしい。
終わって見れば動員は当初の予定の半分近くまで減ってしまい、ライブもイマイチ気持ちよく出来なかった。
CDはたくさん売れたが、そのお金はホールのレンタル料金の不足分へ全て回された。だがそれでも足りない。
仕方がないので前座をやってくれた後輩に金を借りた。その後輩を家に泊めてすぐに金を返すために父親に事情を説明して更に金を借りた。

ちなみになぜか翌日にもライブがあった。ついでに言うならその月はワンマンライブも含めて全部で8本ライブがあった。全てではないがしっかりノルマがかかっているライブもあった。
一体当時の私が何を考えていたのか、タイムマシーンでもあるならばじっくり話を聞きに行ってみたいものである。

もちろんここにある話が全てではないので後日またエピソードを書こうと思っている。
いかがだろうか?私の場合は運も実力も何もかも足りなかったのが原因であって些かバカの度が過ぎるとは思うが、
金がないという点に関してはどこのバンドも同じような経験をしているのではないだろうか?バンドマンの生活というのは一般人の皆様が思っているよりずっと悲惨なのだ。
しかし、二度と思い出したくもない経験をしたはずなのに、翌年には新しいCDをリリースして更にまた全国ツアーに回った。これが中々不思議なものだ。これから先もっとツラい目に遭うとも知らずに私はまた性懲りもなく旅に出たのだ。
どうしてこうまでバンドマンを突き動かすのか、ライブツアーという旅のマジックの魅力をお伝えするのはまたの機会にしよう。

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