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フランスでUX/UIデザイナーとして働くまで 2

「現地人と同じ仕事に就き、お前らの平均年収を超える仕事に就く」

楽しくもあり辛かった、フランス最初の数年間。
苦悩の中、具体的かつ大きすぎる目標が私を支えてくれました。


フランス語、むずい問題。

そもそもフランス語なんて、どうしてこんなにもむずかしいのか。
大学を卒業してすぐに渡仏したのだけど、まあ、そもそも大学の4年生というのはとんでもなく忙しくて、フランス語の勉強なんてほとんど出来なかったわけです。

やったのは、1年間の隙間時間、ほんとうに隙間の隙間だけの付け焼き刃。
渡仏する直前にDELFというフランス語のレベルテストを受けてみたら、A2判定。
要するに初心者レベルですと、オフィシャルに判定された訳です。
A2っていうのは、「ちょっっっとしゃべれるかも?」くらいのレベル。

ちなみに最上級のC2は、ネイティブとほぼ同じくらいにフランス語を理解できます、っていう判定です。
当時の私には想像すらつきませんでした。

それが渡仏後のクラス分けテストでは、なぜかB1に振り分けられます。
あれ? と思いましたが、あとでその理由がわかります。
要するにこの「B1」というのは、「あんた多分そんなにできないけど、まあ度胸ありそうやから入れとくわ」という意味だったのです。

度胸があったかどうかはわかりませんが、後にめちゃくちゃ苦労しました。


フランス人、まじでしんどい問題。

フランスに住むということ。
それは、日本という「超マジョリティ」の世界を捨てて、アジア人女性という「超マイノリティ」のカテゴリに自分を押し込むことなのだと、後になって気づきました。

女子校育ち&大学では女子の多い日本画クラスにいた私が、まさか自分が「マイノリティ」になるという経験をするなんて。
考えてもみなかったことです。

だから最初の数年間、フランスでの生活が「楽しい」よりも「しんどい」思い出ばかりだったのは、決して私がアンラッキーだったとか、そういう話ではないのです。

言葉に対する揶揄、アジア人だからと投げかけられる偏見。
そういうものが降りかかってくるたびに、心が閉じていくのがわかりました。

フランスという国に対する苦手意識は、いつも私について回りました。

今でこそこの国が大好きで、自分の居場所だと思えるようになったけれど、当時はほんとうに辛かった。

まずフランス語が好きでこの国に来たわけでもなかったので、マイノリティとしての覚悟なんて、これっぽっちも持っていなかったんです。

正直に言うと、「ただの偶然でフランス人のパートナーがいただけなのに」と、不貞腐れた気持ちを抱えていました。

それに加えて、語学学校では私より短い学習期間で流暢にフランス語を話す外国人たちが沢山いて、聞かれもしないのにどうしても自分と比べてしまう。
そうすると、自分で自分の首を絞めていると言っても同じ。
まんまと負のループに突入しました。

パートナーの友人たちとのパーティーでは、会話の流れがわからなくて、まるで子ども扱いされる。
それなのに、突然「ねえ、いつ働くの?」なんて真顔で聞かれる。
何もできない自分に、価値を感じられない。
ストレスばっかり溜まっていく。

もちろん優しい「現地人」もいるんですけど、そういう人たちってたいてい「自分が外国生活を知っている人」か「家族に外国人がいる人」です。

つまり、「外国で生きる辛さ」を知らない大半の人たちは無自覚に手厳しい。

そして厄介なのが、外国人がしゃべるフランス語を勝手に審査員みたいに評価してくる人たちです。
善意でやってるつもりなんだろうけど、「そのアクセントはちょっと変だね」とか「その言葉は、あまり使わないよ笑」とか、頼んでもいないのに評価してくる。

それが最初はいいとしても、だんだん辛くなってくるんです。


目標というより、野望。

そんな中で、どうにか自我を保つために私はひとつの目標を持つことにしました。

それが、「現地人と同じ仕事に就き、お前らの平均年収を超える仕事に就く」というものでした。

目標というよりも、当時の私には野望に近いものでした。

日本語を使う仕事とか、日本人相手の仕事とか、そういうものではなく、フランス人と同じ土俵で、どうしても達成したかったんです。

それぐらい、語学コンプレックスを抱えて生きることが私には辛すぎました。

最初の数年のフランス生活の中、普通に働いている外国人たちと出会った時に「きっと道はある」と確信したのです。

私は自分の可能性を信じることに決めて、「これからの私」を計画しはじめました。

(先にネタバレですが、この野望は数年後に達成されます。)

今回はここまで。

つづきは「フランスで天職みつかる」です。

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