ミシェル・ビュトール『レペルトワールⅠ 』(福田桃子 他訳/幻戯書房)

あまり採算の取れそうにない本シリーズを出版してくれた幻戯書房に感謝したい。
できることなら、ビュトールで未訳の『モビール』や『土地の精霊』も、ぜひ刊行してもらいたい。
大型の本(A5版)なのに活字のポイントがやけに小さい(特に脚注や後注)
のが玉に瑕。/

◯〈探求としての長編小説(ロマン)〉:
【実話が外部の明白な証拠という支え、頼みの綱を必ず持っているのに対し、長編小説は、それがわれわれに語ることを自力で引き起こさなければならない。それゆえ、長編小説は優れて現象学的な領域なのであって、現実がわれわれに対してどのように現れ、また現れうるかを調べるのにうってつけの場なのである。長編小説とは、物語の実験室なのだ。】/

【長編小説における形式上の発明は、(略)、リアリズムと対立するどころか、より踏み込んだリアリズムにとって必要不可欠な条件なのだ。】/


◯〈マルセル・プルーストの「瞬間」〉:
【空間的には非常に離れている二つのものが、遠近法の効果によって同一の視野の中で接近し、それらが地理的には隔てられているという知識に反してただ一つのものを作り上げているように見える現象は、彼が「レミニッセンス」※と呼ぶものによってほどなくもたらされる時間的な距離からの解放の、空間的形象となっていることは明らかだ。三本の鐘塔は、まるで鳥になったかのように日ごろの束縛から離脱するのである。
だが、作られては壊されるこの三角形、混ぜ合わされては解かれるこれら三本の石の先端を通して私がそこに認めないわけにいかないのは、三人の女性たちの予示であり(註09)、マルセルの人生に住みつくことになるのは主に彼女たち、ジルベルトとアルベルチーヌ、そしてゲルマント公爵夫人なのだ。】/

※ 「レミニッセンス」:
《レミニセンス(略)とは記銘した直後よりも、一定時間が経ってからのほうがよく記憶を想起できることを表す。》(Wikipedia より。)/

註 09:
【三本の鐘塔をめぐる描写には実際、「それらはまた夜の帳の下りた無人の地に置き去りにされた三人の伝説の乙女を想わせた」{『スワン家のほうへ』第一巻(一巻)}とあり、鐘塔と女性登場人物たちとを結びつける根拠となっていると想われる。】/


◯「エズラ・パウンドの詩的実験」:
【新しい繊細な眼差しが私のテントに入ってきた‥‥  

私の意訳である。

‥‥空の明るさ 
夜の海 
山間の池の緑 
半ば仮面に隠された場所で、仮面を外した両目から輝く。
汝が十分に愛するものは在り続ける。
そのほかは無価値だ、 
汝が十分に愛するものは汝から奪われぬ、 
汝が十分に愛するものは汝の真の遺産である、】
((第八十一歌)/『ピサ詩篇』?)/


◯「ロワヨーモンでの発言:
【小説の方法的な描写は、現代哲学の発展の延長線上にまさしく位置しているからで、現代哲学の抱える諸問題の最も明快な表現と最も先鋭的な立場は現象学のなかに見出されるのだ。】/

【いまのところ、小説ほど大きな力を持つ文学形式はない。小説においては、日常生活における一見ごく些細なできごとと、日常言語とは一見かけ離れた思想や直感や夢を、感情もしくは理性によって、この上なく的確に結びつけることができる。
つまり小説とは、至るところからわれわれに襲いかかってくるほとんど狂気じみたこの世界のただ中にあってまっすぐに立ち、知的に生きるための驚くべき手段なのだ。】/


◯「解題」(石橋正孝):
【評論が〈レペルトワール(=演奏目録)〉と呼ばれ、ジュネーヴ大学での講義録が〈即興演奏〉と呼ばれるのも、そこでは、他者のテクストを楽譜さながら演奏するというかたちで「読むこと」が実演されていたからであって、その際、「モデル作者」※と可能なかぎり一体化し、部分的であれ、その「意図」の可視化が目指されるだろう。】/

※ 「モデル作者」:
自分の意図どおりに実現したテクストを、完全に把握していると想定される存在。/

【読者間の「共有」から出発するビュトールの文学観は、(略)、共有されえない個人の独自性を共有可能にする、という、ロマン主義以来の文学観とは正反対に位置するように思われる。この文学観を確立した時、ビュトールはビュトールになった、つまり、作家として第二の誕生を遂げたのだとすれば、彼にとっての「第二の祖国」はエジプトであり、だからこそ、この地をめぐるエッセイを起点として思いもかけない発展を見せた〈土地の精霊〉シリーズは、〈ビュトール宇宙〉の脊梁をなすに至ったのだといえよう。

ー中略➖

作家ビュトール誕生の秘密を明かすエッセイ「エジプト」は、読者として「土地」に対峙する文芸批評の試みであった。〈土地の精霊〉第一巻の中核をなすこのエッセイの、アクロバティックにして華麗なエクリチュールは、同じ巻に収録され、ヨーロッパ文明の根源に遡ろうとした「デルポイ」ともども、清水徹によってすでに見事な日本語となっている(後者は、文芸誌「海」一九八二年十月号掲載)。】/

【『モビール』は、アメリカを構成する五十州をフランス語表記によるアルファベット順に並べ替え、それらを順を追って、いわば飛行機の視点から横断していく壮大な「空間詩」となっており、(略)文学それ自体の「溶解」のリスクを引き受けたうえで、(略)グローバリズムの本格的な端緒を方法的に捉え、それを真に肯定的なものに転じようとした革命的な書物(略)であり、本当の意味でビュトール的な作品のはじまりを画した記念碑的な作品であった。だが、とりわけ、〈土地の精霊〉シリーズの第二巻以降は、書物という表現形態そのものに対する実験の場として大作化し、物語の単一性によらない作品の統一性を追求した目覚ましい成果となっている(清水徹が、シリーズ第二巻『どこでもない土地』に収録された「雪ーーブルームフィールドとバーナリーヨのあいだで」〔「海」一九七〇年六月号〕を訳出しており、『合い間』は別として、ビュトール特有の形式実験が際立ってテクストとしては日本語で読めるほぼ唯一のケースなので、ご関心の向きはぜひ参照されたい)。】/

【小説(『段階』のこと)は、サルトルの次のような絶讚を例外として、不評だったらしい。    
 人間の人格を形成し、規制し、またその人間のほうからもはたらきかけて変ってゆく家族関係やら職場関係をとおして、人間をとらえようとするこれほどたくみな、またこれほど意味の深いこころみは、まだだれもやっていないのです。
(略)この小説はたしかに、群をぬいてすぐれているという気がします。(ジャン=ポール・サルトル「全体性の文学」、平岡篤頼訳、「新潮」一九六〇年七月号、七二ページ)】

この最後の書誌は、見つかりませんでした。/


本書を読み始めたのは7月2日だが、読了した今日は8月18日。
なにゆえに、こんなに時間がかかったのか?
それは、間に返却期限の迫った図書館本を四、五冊はさんだこともあるが、主たる理由は註の活字が小さすぎて、しばらく読んでいると目が痛くなってくるからだ。
twitterで見つけた千葉雅也さんのツイートを引用する。

《社会は若者で出来ているのではない。中高年や老人に、若者のようにはできないことがあればそれに対応するのが社会的に必要なこと。社会には全世代がいるのだからこれは当然だが、若いうちはその重要性に気づきにくい。》/

財布に優しい本であって欲しいのはもちろんだが、同時に目にも優しい本であってくれることを切に願う。

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