季刊「パイデイア」第4号

特集「ヌーヴォー・ロマンの可能性」を読む。
僕が学生の頃、東京の本屋の海外文学の棚には、ロブ=グリエ『嫉妬』、ナタリー・サロート『黄金の果実』、ミシェル・ビュトール『心変わり』、クロード・シモン『フランドルへの道』などのヌーヴォー・ロマンの小説たちが並んでいた。
あれから50年、50年遅れで再びヌーヴォー・ロマンを読む。
いかにも、のろまな僕らしい。
今頃この雑誌を読む人は、ヌーヴォー・ロマンの研究者以外にはいるまい。
鈴木重生(『ヌーヴォー・ロマン周遊』の著者)先生、こんなに遅れてすみません。
あまりにも遅れてきた感想文だ。
今回も読書ノートとして記す。/


【ロブ=グリエの『嫉妬』において、ぼくたち読者が知らされるのは、《私》の視線がバナナ園や、壁の上を這うむかでや、《私》の妻らしい女の手を見ていることだけであり、嫉妬に悩む《私》の錯乱した意識内部の動きだけである。(略)
そこには、(略)くっきりとした(略)輪廓で描きだされた古典的な小説の人物像は消え失せ、読者の意識によって同化されることをひたすら待ちうける、抽象的な任意の点として仮構された《私》がいるだけなのである。】(菅野昭正「昼と夜との綺想曲ーージャン・チボドー小論」)/


【「読者こそ、彼が読む作品の唯ひとりの生きた登場人物なのです」アラン・ロブ=グリエ】(豊崎光一「同一者 分身 反復ーーソレルスとル・クレジオを結ぶもの」)/

【『公園』を振り返って見ることから始めよう。宮川淳氏は、(略)エッセー『鏡について』の中でこの作品に触れて、話者の視線がしばしば、一つないしそれ以上の鏡に映った像を、そして何よりも鏡の中の自分の視線そのものを見ていることを指摘し、ソレルスの追求しているものが、何ものかの再現ではなく、「それ自体としてのイマージュ、単純に、そして純粋に似ていること」であると述べている。そして鏡とはまさしく「それ自体イマージュと化した空間」なのだと。
イマージュのイマージュともいうべき鏡。そして水面、壁、舞台(略)ーー二重化と反映の場として、鏡のヴァリエーションと見做しうるそれらは、ソレルスの根源的志向のイマージュである】(同上)/

ソレルスは、ヌーヴォー・ロマン以後の世代を代表する作家の一人であり、雑誌「テル・ケル」に拠る若手グループ「テル・ケル派」の盟主だ。/

◯ G・ジュネット「ロブ=グリエ論」:
モーリス・ブランショは、マラルメの詩を散文に《翻訳》しようとする試みに反対するに際して、

【「詩的作品は、独創的で還元不可能な構造を具有した、ある意義を持っている」ということ、「詩的意義の第一の特徴とは、それを顕在化する言語と、改変の余地なく結ばれていることだ」ということ、「詩は、理解されるためには、それが提出する唯一の形式に対する完全な同意を要求するものだ」】

と指摘した。

【ロブ=グリエの作品のような小説作品についても、明らかに同様のことを言わねばならないのである。その作品の意味は、形式と切り離せないのであり、ある詩の逐語的な表現を改変するときは、その詩の意味に到達できないのと同様、これらの小説のどれか一篇の筋を、物語としての原文の彼方に再構成することはできない。ロブ=グリエの小説を《再構築する》ということは、マラルメの詩を《翻訳する》のとおなじように、それを抹殺することなのだ。】/


引用した文章以外の特集の内容:
{実験としての文学}:
◯「R・バルトとの対話」
◯「N・サロートとの対話」
◯「R・デ・フォレとの対話」
◯「M・ビュトールとの対話」
◯「J・ケロールとの対話」/


テル・ケル派、R・デ・フォレ、J・ケロールという存在が取り上げられているが、これらの作家を追いかけるかどうかは、鈴木重生先生の『ヌーヴォー・ロマン周遊 続・現代小説案内』を読んでから決めたい。

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