早稲田文学2号(2008年12月)

読書ノートとして記す。
①特集「ミシェル・ビュトール 〈新しい小説(ヌーヴォー・ロマン)〉の末弟/〈未来の小説(ネクスト・ノベル〉の祖父」、②十時間連続シンポジウム「小説・批評・メディアの現在と未来をめぐって」、③特別付録DVD(川上美映子の「朗読 戦争花嫁」、ピエール・クリブッフ監督「ミシェル・ビュトール モビール」)付きという豪華版。これは当たりだった。
ボリュームの関係で、ビュトール特集についてのみ記す。/

◯ピエール・クリブッフ監督「ミシェル・ビュトール モビール」(DVD):

【モビール…それは 当時ヌーヴォー・ロマンと呼ばれていたものとは まったくちがうものだったんです それはもちろん関係はあって 続きではあるんですが、まったく異なる実験が含まれていました (略) 米国への旅が私を飛び出させ、まったく異なる道に向かわせたのです】

【ヌーヴォー・ロマンは形式にこだわり過ぎだとよく非難されました (略)
新たな形式の模索は、新しい光学機や音響機を模索するようなものと言ってもよいでしょう 文学的形式とはなにかを見させてくれる、それも今まで見たこともなかったり注意を払ったことなどないものを見させてくれる器具なのです】

【「私は同時に多くの物語を語るように試みます (略) そして私は幾人もの人物の生を同時に語る方法を試みてきました たとえば『段階』では クラス全体 先生も合わせたクラスの生徒たち全員を (略) 追う方法を見出そうとしました 続く『モビール』によって試みたのは (略) 組織化された群衆全体のなかを 散策することでした (略) 私が試みたのは アメリカ全土の日没の推移を感じさせることでした かわるがわる眠りにつき かわるがわる夢を見始める人々とともに】

【文章を書いているときでも 単に書くのではなくて 自分が書くもののなかで曲をつくり 絵を描きたいと思います 音楽家は その点でとても助けになります なにより時間のなかに 対象と形式を配分するしかたに関して 彼らは私のお手本です】


◯『ミシェル・ビュトール モビール』監督・ピエール・クリブッフによる制作ノート:

【『ミシェル・ビュトール モビール』は、現実なるものと想像的なるものとの「境界に」位置することになる。】

【この映画はミシェル・ビュトールの文学的もしくは精神的世界の「再演」である。その世界を《反復する》ことにより、この映画はそれを作り直す。換言すれば、ひとつの変容を起こすのだ。あるエクリチュールからのまた別のものへと‥‥‥】/


◯ミシェル・ビュトール「映画について、小説について」:

【まずは小説について、(略)、読者の参加はとても重要です。わたくしの小説、(略)に関して、日本ではとても重要な要素があります。それは翻訳家です。わたくしの本と、日本人の読者の間には、基本的な仲介者として、翻訳家がいます。(略)翻訳者は絶対的に重要な役割を演じます。しかし読者自身もすでに一種の翻訳家です。なぜなら、読者がある本を読む時、白い紙の上に小さな記号があるのを見ています。(略)白い紙の上に書かれた記号が、ことばに変身し、イメージに変わります。作家が「景色」といったとします。読者は、この「景色」を、自分が知っている景色を使って翻訳をするのです。(略)本を読みながらわれわれが自分に対して表象するものは、われわれ自身によります。作家にもよる、翻訳家にもよる、しかし同時に読んでいるわれわれ自身にもよります。したがってわれわれ読者は非常に重要な役割を持っています。読書は決して受動的ではなく、常に能動的です。】


◯石橋正孝「ジュール・ヴェルヌで読むミシェル・ビュトール」:

【『心変わり』にはたぶん、ヴェルヌ的なところがあります。鉄道の重要性、そしてその含意するところが挙げられます。時刻表における列車の擦れ違い、パリからローマへの、そしてローマからパリへの行程。登場人物は時空の網目に捉えられます。彼は、車窓越しに外を眺めます。その車窓は夜になると鏡に変じます。】

【『段階』において、ビュトールは小説の限界に達した。続く『モビール』以後、彼はその著作の表紙に「小説」の一語を記さなくなる。(略)
小説ジャンルから解放されたビュトールは、大いなる自由を獲得する。それは、『モビール』に雄弁に現れているし、『土地の精霊』シリーズが世界を探索する際に発揮されるだろう。】

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