ミシェル・ビュトール『レペルトワールⅡ』(石橋正孝監訳/三ツ堀広一郎・荒原邦博・中野芳彦訳/幻戯書房)

立教大学で開催された 「20世紀フランス文学の検証—ミレイユ・カル=グリュベールの文学批評を中心にヌーヴォー・ロマンとその後の系譜を追う」のイベントで、本書の訳者である石橋正孝さんが、『レペルトワール』シリーズの売れ行きについて、詩集と同じくらいしか売れていないと嘆いていた。
また、ミレイユ・カル=グリュベールの『クロード・シモンーー書くことに捧げた人生』には、クロード・シモンが彼の小説の売上部数を知って深く失望したことが書かれている。
まるで、ヌーヴォー・ロマンの作家であることは、サルトルが『文学とは何か』で《詩人とは敗北を選んだ者のことである。》と書いた「詩人」であることと同義であるかのようだ。
あるいはまた、荒川洋治が『忘れられる過去』の中で詩人について書いている言葉、

《詩を書くことはそれを選んだところで人生が消えるものである。(略)土を離れ、空に浮かぶことなのだ。》

をも、想起させずにはおかない。/

昔、「現代思想の冒険者たち」という哲学の叢書があった。
それに倣うなら、ヌーヴォー・ロマンは「現代文学の冒険者たち」だろう。
彼らの冒険は人跡未踏の地へ挑んで行く冒険だ。
あるいは熊に喰われるかもしれないし、ときには宙へ浮いてしまうなどという想定外の事態も当然あり得るのだ。/

僕にとってヌーヴォー・ロマンを読むことは、ドン・キホーテが風車にぶつかって行くような破天荒な冒険だ。
フランスの歴史や文学の知識もなしに、「憂い顔の騎士」ならぬ「憂い顔の海馬(トド)」が徒手空拳で、自らの体重だけを武器に風車にぶつかって行こうというのだから、跳ね返されるのは先刻ご承知だ。
まあ、一行の文章か一つのイメージだけでもつかめたならば御の字だ。/


◯「家具の哲学」:
【(略)バルザックは次のように述べる。 
動物には家具も、芸術も、科学もほとんどない。それに対して人間は、探求されるべき法則によって、みずからの必要に適合させたすべてのもののなかにその慣習や思考や生を表現する傾向がある。

ー中略ー

それに対して、王子、銀行家、芸術家、ブルジョワ、聖職者、貧者の習慣、服装、言葉遣い、住まいは互いにまったく似てはおらず、文明によってまったく異なる様相を呈するのである。 
したがって、書かれるべき書物には、男、女、物の三つの側面が必要であった。つまり、人間たちと、人間たちがみずからの思考を投影する物質的な表現である。要するに人間と人生ということであって、なぜなら人生とはわれわれの衣装なのだから。】/

【(略)長編小説を書くということは、人間の行動の総体を組み立てるばかりではなく、その登場人物たちの近くにあることによって、あるいは遠くにあることによって、彼らと必然的に関連する物の総体を組み立てることでもある】/


◯「長編小説(ロマン)の技術をめぐる探求」:
【「未満の会話」※といった概念は、古典的な内的独白が囚われたままになっている牢獄を打ち破り、フラッシュ・バックや想起を遥かにもっともらしく正当化できるようにしてくれる。】/

※ 「未満の会話」:
【註07 「ヌーヴォー・ロマン」の作家として知られるナタリー・サロート(一九〇〇-九九)が自身の小説技法を説明するために編み出した概念。】/

「未満の会話」という言葉は、今回初めて知った。今までは「地下のマグマ」という言葉しか知らなかった。これもなかなか分かりやすくていいな。/


◯「ラブレー」:
【(略)ラブレーはしばしば「享楽主義者」と見なされる。確かに、ラブレーは笑いたがり、われわれを笑わせたがるが、気をつけねばならない。(略)
ラブレーの笑いは、その大部分が、敵を遠ざけ、追っ手に尻尾をつかませず、当時は非常に恐るべきものであった検閲を避けようとするための素晴らしい見せかけなのだ。

ー中略ー

ラブレーが書くものすべての根底には、巨大な憤りが燃え上がっているのである。】/


◯「さかさまのバベル」:
本編は、ヴィクトル・ユゴーについての評論である。
註によれば、ビュトール最晩年の仕事の一つは、ユゴーの撰文集だったという。
ユゴーの詩から引用する。/

【おお、宣告は下った! 逃げ場のない責め苦だ! 
沈黙と霧の中へ永久に転落してゆくとは! 

ー中略ー

底なしの闇の中に果てしなく落ちてゆくこと 
これが地獄だ。(「ダンテの幻視」『諸世紀の伝説』所収)】/


【彼は混沌のなかの薄暗い防塁(トーチカ)を掘りすすむ。 
血や泥や傷痕におおわれたその身体。 

ー中略ー

彼は行く。喘ぎ、歯ぎしりし、戦い、血を流し、膝をかがめながら 
曲がりくねった道を切り開く。向きを変え、転がり落ち、 
奥へとすすむ。墓に穴をあける蛆虫みたいに。 
弱まっていくはずの音に耳をすまし、 
転落と深淵とに夢中になって、彼はくだる。】(「ティタン」、同上)/


◯「小説家ヴィクトル・ユゴー」:
【スタンダールがわれわれをファブリスの傍らにおいてワーテルローの戦いに連れていくとき、われわれはファブリスであったならば体験したであろうことを「生きる」。登場人物の「一挙手一投足」に縛りつけられてしまうのだ。一方、ユゴーが『レ・ミゼラブル』でワーテルローの戦いを描くとき、その意図はまったく別のところにある。彼の目的は、戦いの「場」を感じさせることによって、戦闘に加わったすべての人の行動や印象をわれわれが演繹できるようにすることだ。】/

【数段落前の箇所で、ユゴーは宣言していた。 
降る。絶え間なく降る。恐怖が、悪徳が、犯罪が、暗黒が。それでもこの闇を探らなければならない。だから入ろう。そしてわれわれの思考は、この不吉な嵐の中、濡れそぼった鳥の苦し紛れの飛翔を試みるのだ。 

ー中略ー

人間の過ちを世界の内部で、過ちが発生する風景の内部で考えること、 
人間の憤怒を、猛る自然の内部で考えること、 
われわれという島を、打ち寄せる波濤のただ中において考えるということを、やり遂げなくてはならないのであり、(以下略)】/

【要するに、本を次から次へ山積みにするだけでは足りないのだ。(略)必要なのは、われわれの石が古い壁のなかに変動を引き起こして、すべてが一つの窓として再編成されることだ。今日の記念碑的書物が行うべきは、先立つ書物の数々に、透明性や失われた今日性を取り戻させること、つまり、それらを読むように仕向けることなのである。】/

以下は、本書の帯で引用されている文章ではあるが、本書の素晴らしさをできるだけ多くの人に知ってもらうため、改めて引用したい。/

【書物はモビールでなくてはならない。それも、他のすべての書物の運動性(モビール)を目覚めさせるモビール、他の書物の火をかき立てるような炎(ほむら)であるべきだ。】/

本書は、僕を『レ・ミゼラブル』をはじめとするユゴー作品や、『ガルガンチュワ』などのラブレー作品の方へと背中を押してくれた。
その意味で、本書が一冊の優れた「モビール」であることには疑いがない。/

【印刷という仕方であれば、思想は遥かに消しがたい。(略)長く続くものから、不滅のものになるのである。塊まりであれば壊すことができる。しかし、あらゆる場所に存在していたら、根こそぎになどできようか。】/

この文章は、ドゥルーズ=ガタリの次の言葉を想起させる。

《草以外に出口はない。…草は耕されない広大な空間のあいだにしか存在しない。それは空虚を満たすのだ。それはあいだに生える、ほかのいろいろなものにはさまれて。花は美しいし、キャベツは役に立ち、ケシは人を狂わせる。けれども草は氾濫であり、それは一個の教訓なのだ。》(ドゥルーズ=ガタリ『千のプラトー』序ーーリゾーム/宇野邦一ほか訳/より。)/

そして、それはまたブルース・リーの次の言葉をも同時に想起させるのだ。

《心を空にしろ 形を取り去れ 型を捨てろ 水のように 水は流れることも 砕くこともできる 水になれ 友よ》(ブルース・リー/NHK『映像の世紀バタフライエフェクト「香港 百年のカオス 借り物の場所 借り物の時間」』より。)/

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