続きの終わり、その後より

 それは、桜の花吹雪というよりは、椿の落花に似ていた。然るべき時期が来たことを察したのには違いがないけれど、区切りをつけるような思い切りのよさというか、解りやすさみたいなものがあった。
 とはいえ、首からポロリと取れていくような鮮烈さはなくて、ただ眠るように呼吸を止めていたのを、取り返しがつかなくなってから、見つけたに過ぎない。すごく冷たくて硬かったけれど、変に思うことはなかった。ずっとこの体温で生きてきたと言われてもおかしくなかった。

 父は自殺した。曰く、続けることに耐えられなくなって

 あの日から、本当に昔から変わらない部屋の静謐は、私にすれば心地よくて、今や何の違和感もないけれど、父からすれば絶対的な欠落に起因する不気味な静寂だった。
 親子の中に間違いなく存在するはずの共通項が抜け落ちているような疎外感を抱えて、否応なく変わっていく外側の熱を感じながら、時計の針が止まったような内奥の冷たさに、「耐えられなかった」と理由付ければそれまでになる。流動的だった時間が固定されて、解釈の変わらない過去になる。
 生前と何も変わっていない父の部屋には、驚くほど物が少ない。意図的にそうしたかもしれないけれど、余儀なくされるという言葉がいつも似合う。私にとって、父は常にそういう人だった。

 10年前の11月、母は帰ってこなかった。享年36。

 私達の中の母はここで完結したまま。あまりに痛ましい形で、止まっている。
 12歳の私は、テレビから流れてくるニュースでそれを知った。一人の部屋にけたたましい電話が飛び込んできて、電話のベルを止めるために取った受話器から、ベルと同じ甲高さのサイレンが流れ落ちてきたのを今でも耳鳴りに聞く。
 父は深夜に帰ってきて、私を見るなり、子供のように泣き出して、もう本当にすべきかたもなく、玄関にへたり込んだまましばらく、母が私用で履いていく靴の匂いを嗅いでいた。私は母が使っていた靴を全部下駄箱から出してあげた。
 拉げた東横線の銀色と摩擦で焦げたステンレスの黒。あの箱の中に母はいたって、誰に言われても現実味の無いことだった。
 でも、頭を強く打って即死という事しか伝えない言葉より雄弁なのは、母の頭を穿った向かい側の日比谷線。天井は深く抉れて歪んだ座席は空に晒されていた。雑然としていた中目黒駅がパラパラ漫画のように移されていたから、私達は頭がおかしくなりそうだった。
 テレビを消すと訪れる不自然な静寂の中で、これから父と二人で生きて行かねばならないことだけは悟っていた。その父は虚ろな眼差しで部屋のそこかしこを見つめていた。その動きは、天敵と獲物を同時に探る小さなカメレオンに似ていた。あの一挙手一投足に生存が関わるような雰囲気というか、儚さみたいな何かが。

 父は電車通勤を止めた。別に電車に乗れなくなったわけではなくて、必要となれば、あの銀色の車体をホームで迎えて、平然と他の客と同じように乗り込む。
 ただ、無言で抗議するように、生活を変えていった。そうする必要に迫られていた。母がいない世界を淡々と受け入れていくためには形から入る必要があったから。
 でも何より耐えられなかったのは、自分の不手際だったはずだ。何もしていないのに、棚の上には埃が積もること。何もしなければ一度の飯すらないこと。神経質な夜には、そうした些事が嫌に目につくから、やっとの思いで立ち上がったら、母の不在が作る影がより一層色濃くなって、父の寂寞とした内心を搔き乱す。しばらくはその連続だった。

 中学生になると、私はアパートの自室に男を連れ込むようになった。他多くの同年代の女子と同じように、許される遊び場の範囲が狭いことに苛立っていたけれど、心身の隙間を埋める時間はいつでも作れた。
「大丈夫。父さん、そういうのに関心ないから」
 その文句だけで夜まで引き留められたから、面倒はなかった。そもそも、父の帰りは遅いから、私が証拠を隠せば夕時に何があったかなど気付かれもしない。親ってそういうことに勘づくものって言うけれど、勘づいたところで父に何が言えたのか。
 漫然とゲームをしたり、漫画を貸し借りしたり、たまに寝たりしていた。勿論、そういう意味で。休日は横浜に出かけて、夜まで遊んだ。無論、そういうことも含めて。
 その間だけは、家で一人過ごす父のことや、それが母の幻影とともにあることは、頭の隅に追いやれた。決して父を嫌ってはいなかったけれど、後ろについている細長い影が常に母を探して彷徨っているのを見るのは、本当に耐えがたくって、亡霊を家に飼っているような気がしたと言って大袈裟でないくらいの思いだった。
 私がベッドを置いていた部屋は、かつて母の私室だった。そこに自分以外の男の匂いがすることを、父はどう思っていたのか、確かめる術もない。
 思えば、父の私物に母以外の女の気配を見たことがなかった。あったとして娘の私に咎める理由はないし、そうするつもりもなかったけれど、父は本当に禁欲的な態度を貫徹したのか、故人になった今でも訝しまずにいられない。それは生物として本当に苦しいはずだから。

 母にも確か、匂いはあった。それを嗅げた回数はとても少ないけれど、父からそれが香ってきた日のことはよく覚えている。高校受験の前の秋に、私が塾に行った帰りだった。雨が降る日は父に迎えに来てもらうことになっていた。駅前のロータリーに止まっている黄色いインサイト。大学生の時に買ったという父の愛車には白い煙が充満していた。本当にその日だけのこと。「なんか煙臭いね」
 窓を開けると、アンモニアの刺激を含む空気が零れ落ちてきた。
「ああ、うん。済まない」
「タバコ?」
「そう。これ母さんが吸っていたやつ。命日だからさ、思い出してそこのコンビニで買った」
「嘘でしょ。別のテープがついている」
 その時の私は妙に冴えていて、父が台詞の奥に隠したものがすぐに解った。
「ふっ、なんかこれを吸い尽くしたら、この車内が煙だけになって、死ねるんじゃないかって思って、ちょっと前に買った」
「ははは、練炭じゃないんだから。それにそういうのは開封せずにお供えすればいいの」
 金色のマルボロを2本吸っただけで、非喫煙者の目は真っ赤になっていた。作られたような静けさがちょっとおかしかった。半笑いで片付けようとして本心では全く笑えていないところも面白かった。
「母さんはお前を産むときに禁煙したんだ。酒もコーヒーもやめた。だから俺もやめた」
「聞いたよ。お陰様で、そこそこ健康に育った」
 父は吸い掛けの一本をドリンクホルダーに置いた灰皿に捨てて、シフトレバーを握ると黙って車を走らせた。
「父さん、今更だけど再婚しないの?」
 家路ではそんなことを問うた。とにかく、敢えて無神経な話をして、まだ義務教育も終えない娘の前で自殺しようとした咎を思い知らせたかった。
「俺に出来ると思うか?」
「出来んじゃない。高所得者だし見た目は若いし」
「嬉しいこと言ってくれるね。でも問題はそれじゃない」
 小さなワイパーが水滴を拭っても、霧がかった奥の景色は微かにぼやけている。
「綾より、母さんより美しい人はいないよ」
 母は最早、信仰の対象になっていた。死んで、粉々になってなお、美しくなり続ける源泉を前に、そのあたりに転がる有象無象は塵芥に等しい。父の中には、そういう精神構造が出来上がって、スノードームのように同じ形のまま回るしかなくなっていた。
「そっか。じゃあ今でも殉死したいんだ」
「さっきまでそうだった」
「じゃあ、どうして」
「綴(つづり)が帰ってきたから」
「私がもうちょっと遅かったら、咳き込むくらいにはなったかもね」
 消えかかっている匂いを必死に覚えようと、私は鼻の奥の神経を研ぎ澄ませた。なぜそうしたのかは今でも解らないけれど、ただ、この時はっきりと悟った。私は父と母の副産物である、と。もっと踏み込めば、私の生が死に向かう父を邪魔しているのだ、と。
「かもしれない」
 ギアをRに入れる音。ハンドルがぐるぐると曲がって、玩具のような車はマンションの駐車場に収まる。その時にはもう煙も消えていた。父の目も戻っていた。でも、眼球に灯ったあの不思議な光。どうしてか今でもたまに見る。
「まあ、お前を育てるのは俺の義務だからな」
 その言葉と一緒に、まだ18本も残っているソフトは、ゴミ箱に放り捨てられた。結局、お供えもしないままに。
「母さんもきっとそれを望んでいるね」
 そういうことにしておいた方が、私にとっては好都合だった。
「綴、さっきから、一体どこでそんな言葉を覚えた?」
「国語の長文だったかなぁ」
 父は声も出さずに笑った。その表情を今でもたまに思い出す。

「兄貴も頑張ったんじゃないか」
 葬儀の日、叔父の口から出た一言目だった
「綴がいなかったら、あの事故の日に、それこそ電車に飛び込んでいたんじゃないか」
「確かに」
 私は不思議とあの事故の夜が思い出されて笑えた。ちょっと距離を置いて見るとコントみたいだった。
「でも、私のせいで死んだのかも。私が順調に育ったから、もういいかもって思ったんじゃないかな」
「院進とか留学とかで兄貴の命も伸びたかって、そりゃ酷だ」
 奇妙なことに、故人に一番近い二人の会話が最も乾いている。思わずジョークが混じってしまうくらいに。それを周りは不思議そうに見ている。母の葬式の日は、思い出すのに少し時間がかかるけれど、もっとずっと暗かった。そこに父の死線を跨ぐような呼吸があったからだ。
「兄貴が、どういう考えだったかっていうのはよく解らん。でも、綾ちゃんが全部だったんだよ、きっと」
「そう言われると敵わないよね。娘を育てるのはロスタイムだったってことかしら」
「もう手に職があるんだろう。それに結婚もできそうだって」
「うん、これもまあお陰様」
「やめろって、そのお陰様って言うの。綴が頑張ったんだろう。兄貴もそれで安心したんだよ」
 育児に対する義務感だけで10年を生き抜いた、あの細い身体に、私は敬意を払わねばならない。帰宅して父の冷えた身体を見つけた時、ちょっと前までは年の割に若いように映っていたそれが酷く老けたように見えた。父は父の役割を終えたのか、それとももっと根源的な人間としての役割を終えたのか。そんなことを、ふとした瞬間に考えてしまう。

 結局、捨てられないまま残った部屋と車と、母の遺品。これらに囲まれて私の生活は続いた。逆に言えば、他は何も残らなかった。父と私が暗黙のうちに残さなかったというのが正確なところかもしれない。
 今が一番、引っ越しも楽になろうが、下手に事故物件にした直後に去るのも嫌なので、もう少し居残るつもりでいる。今の彼、翼がそれを望まないのはよく知っている。やがて、この部屋に居残る2人の亡霊とは別れることになる。それは何となく予感している。

 高架ホームを行き交う電車を見ていると、時間が瑕疵を少しずつ埋めていくことはよく解る。駅の少し南に立っている慰霊碑に花を添える人も年々減っている。今や東横線は日比谷線と直通していない。その名残で不自然な途切れ方をしていて、そこに終点という名前がついている。そこに大した意味はないし、本当に何の脈絡もないけれど、そうした堆積の下に私の記憶は埋もれていくと、その時は思えた。

 大学受験で、どこだったか、確か四ツ谷に向かう時だったと思う。他にも受験で東京に出なければならない日はいくつかあったけれど、その日だけ電車に乗ることを避けてきた父がついてきた。
「試験受けている間、どこにいるつもりなの?」
「うーん、まだ決めていない。中目黒で降りることは決まっている」
 てっきり会場のキャンパスで待っているものだと思っていたから、何かしでかすんじゃないかと不安になった。
「ちょっと、そこで」
「それはない。そんなことしたら信号の関係で綴が会場に向かう電車も止まってしまうからな」
「笑えないんだけど」
「受験のことに集中して」
 なぜか楽しそうで、腹が立った。娘の受験本番に際してそれはないでしょ。
「誰のせい?」
「ごめんて。でも今日がちょうどいいかなって思ったの」
「やっぱ変だよ。学費は最後まで払ってね」
 父は噴き出した。
「もう受かった気でいるの?」
「少なくとも前の文学部は受かったと思う」
 ちなみに落ちた。さらにこの日受験したところも落ちている。
「ええ?どこから出てくるんだその確信は」
「感触」
 そう言ってしまうくらいには受験に対して適当だった。それでも最後は武蔵境の某大学に掬われた。どうしてかは今でも解らない。
「はぁ、中高で遊び惚けていたお前がどうして」
「遊んでいるのは一面の話。私って多面体なの」
 せっかくだから、ちょっと傲慢なことを言って見せたりした。父には言えないくらい遊んでいた。
「へぇ~。そんな言葉どこで覚えたの?」
「なんかの小説」
 子供の戯言と思っていられたのか、父は終始にこやかだった。少なくとも私にはそう映った。でも電車が中目黒に着くと、さも当然ですと言わんばかりに本当に降りてしまった。
 ホームドアの前に立って、こちらを振り返ると、いってらっしゃいと言って、電車が出発するまでそこで手を振っていた。普段そんなことをする人ではないのに、この日ばかりは何かの通過儀礼のように、それができていた。私も努めて笑顔で手を振り返した。

 電車が加速して、父の位置は右にずれていく。本当は私の方が動いている。ちょうど最後尾だったから、私が見えなくなった後、父が何しているのか気になって、運転席の窓からホームを見たら、影はまだ正面を向いて、直立したままだった。手をだらりと下ろしたまま、項垂れていた。その時ようやく気付けた。多面体なのは、父も、誰も同じだった。
 きっと、妻が越えられなかった場所を娘が越えていくのを見たかったのだろう。そうして電車を忌避する自分に別れを告げたかった。だから、その日の父は早まるようなこともなく、奇妙な彫刻だらけの美術館に行って、巨大な工場のようなスタバでコーヒーを飲んで、その写真をわざわざ受験終わりの私に送り付ける無神経を働いて、有休を過ごした。
 システムエンジニアの仕事がほぼ在宅で完結するようになった昨今、私が部屋を出る機会は格段に減った。パソコンとテレビと実用書を往復する視線がたまに疲れて泳ぎ出す。ともすると父はずっとこれを見ていたのか。私のことなど、殆ど目につかなくて、ただ薄暗い部屋を徘徊しながら亡霊を探し求めていた。あの眼の奥には、永遠に母が宿っていた、多分。

 土曜プレミアムで『エイリアン』がやっていた。パソコンから目を上げて、ぼんやりと見つめていると、ちょうどエイリアンの子供が生まれた。派手に腹を突き破って産声を上げる。男性の母体はしばし喚き散らした後、出血死する。
 ギーガーのデザインの秀逸さに改めて驚かされていた。間違いなく異星の化物だけれど、生々しい人間のモチーフが散りばめられている。
「へぇ~」
 意味のない感嘆詞が零れる。私もこうやって生まれたのだろうか。フェイスハガーが顔にへばりつくような性行為の結果、母の身体を酷く傷つけながら這い出てきた。でもそうなると、父に女性器がついていて、私はフェラチオだかクンニリングスだか解らない口淫の果てに着床したことになる。
 目の奥が疲れているのか、頭を上手く回せないまま、随分と気色悪い想像が止めどなく続く。
 来月は少し受ける案件を減らしても良いかもしれない。そもそも翼と結婚すれば、私が働く必要もなくなる。別にすぐ辞める必要もないから、しばらくは続けるだろうけれど、今の彼からすれば、私の方が稼いでいることがコンプレックスなのかもしれない。
 古い価値観にとらわれる必要がないことは解っている。しかし、どんな言い訳を塗り重ねても、自意識は消せずに持ち主と同じ息をする。翼の中に潜むそういうものを意識せずにはいられない。
 そういう経験の後に、やっと私は両親のことを夫婦として考える。今や妄想するしか方法はないけれど、ようやく、比較対象として自分達の身を置くことができた気がする。遊び惚けるだけではない男女の女の方として自認が芽生えていくのを感じる。
 おそらく父は、サラリーマンとしてあの時代でもかなり順調な出世をしたから、今の私と同じ境遇に母が立ったことはない。逆に家計面で父に依存する関係を疎む気持ちはあったとておかしくない。けれど、幼い私の前でそのような素振りを見せることはなかったし、あったとしてそれは重大な事項ではなかっただろう。
 何より父は母に執着していた。それだけは誰の目にも明らかだった。母は父に捨てられることなどありえなかった。むしろ、父の方が母の魔性に隷属しているような気配すらあった。幼心にそう感じざるを得ないほど、父の情愛は強烈だった。母の死に際してそれはより一層色濃く感じられた。勿論、愛したのは亡くして初めてではないけれど、父の思想はあの日から虚構への崇拝として止めどなく表出した。
 今の自分が、翼からどれくらいの愛情を向けられているのか、たまに漠然と考える。別に捨てる捨てられるを深刻に捉えるでもなく、私に向ける感情の正体を暴きたいと思う。翼はどこで何をしている時に私のことを考えるのか。

 曰く、綴をお義父さんから奪ったのは僕

「初めてお義父さんに挨拶に行った時、変な話だけど、あの人が僕のライバルに思えた」
 最初は言っていることの意味が解らなかった。高速道路のトンネルの明滅する光が私達を交互に照らしていた。だから、翼がどんな顔をしてそれを言っているのか、すぐには解らなかった。そもそも私達はじっと前を見たままだった。
「どういうことよ。私を渡さない頑固親父ってこと?」
「いや、むしろ。彼氏や同世代の異性として綴を愛しているような」
「世迷言ね。さすがに父とそういう関係になったことはない」
「それは疑っていない。そういうことじゃなくてね、僕が言いたいのは」
 翼が口を噤む間だった。偽物のエンジン音が聴こえる。彼は必死に言葉を選んでいた。
「お義父さんとしばらく話していて確信できたことがある。それはいつからか、多分綴が思春期を迎えた頃、お義父さんの寵愛の対象は亡くなられたお義母さんから君に映った」
「面白い持論ね。でも何なの、その寵愛って」
「何だろう。でも僕も確かに持ち合わせているんだ。君に対して」
「当たり前だけれど私にとって翼とお父さんは違うの」
 それは父にとって、私と母が違うことと対称の構図にある。
「解っている。おかげさまで、僕が綴を奪えた。そうしてお父さんは死んだ」
「飛躍しすぎ。自殺はずっと昔から決まっていたっていうのが身内の定説」「契機は僕が現れたことじゃないか」
「驕りね」
「そうかな。間違いだとは思わないんだ」
 どうしようもない議論だった。当事者がいなくて収集がつかなくないから、どちらにしろ妄想に過ぎない。それでも口に出さずにはいられない。
「僕はお義父さんに思い知らせたんだ。貴方と娘の絶妙な距離を保った同居関係はずっと続かないですよって」
「ずっと続くとはお父さんも思っていなかっただろうけど」
「いや、お義父さんは君を普通の娘として愛するばかりではなかったよ。ともするとお義母さんの幻影を重ねていたかもしれない」
 トンネルが終わってサンルーフから眩しい光が差し込む。運転席の翼が遮光板を下ろす。
「私って、お母さんに似ている?」
 ミラーの角度で、明滅する自分の顔と目が合う。
「僕はあの写真でしか見たことがないけれど、ちょっと似ている。唇の薄さとか、耳の形とか」
「よく見ているね」
 彼は数回しか母の遺影を見たことがないはずだ。
「あの日の、僕が挨拶に行った日のお義父さんは、本当の意味で覚悟したと思う。自殺を」
「ずっと前からそのタイミングを伺うような人が今更?それにこんなことを言うと傷付くだろうけれど、私は今までだって男と遊んでいたのよ」
「こうして直々に挨拶に行ったのは僕が初めてだったはずだ。つまり、対面で最後通牒を突き付けたんだ」
「大袈裟ね。そう思いたい理由でもあるの?」
「解らない。言葉にすれば独占欲になるけど、そうは表したくない」
 要するに、彼のプライドの問題に過ぎない。彼は若見えする父に、私とずっと同居していた存在としての父に、男としての対抗心を否定しきれないでいるだけだ。
「君が前に話してくれた。あのタバコの話、あったじゃん」
「塾帰りに車で吸っていたこと?」
「そう、あの時お義父さんがタバコを吸い掛けて、吸い切れなかったのは、娘としてではなく、お義母さんの面影を纏った君が現れたからじゃないか」「へえ、面白い解釈ね。小説の種にはなりそう」
 少し挑発的な意図を以て言ったのに、翼は口角を動かさない。
「お義父さんはずっとお義母さんへの執着を忘れてはいなかった。でも、君が大人になるに連れて、その内にこそ、それを見るようになった」
 熱弁する頬は、どういうわけか紅潮している。
「君は昔から大人びていたんだろう。普通の人が大人の異性と話すみたいに父親と接することができる。そしてお義父さんの方も一人娘がそうやって育つものだと思って疑わなかった」
「確かに、お義父さんは一人っ子の一人親だし、親として未熟というか普通と違うところはあったのかもね。でもお陰様で物凄い投資してもらったの。パソコンもいいのを置いてくれたし、本も興味がある新書を片端から買ってもらえた。私大も出られた。お父さんは他にあまり金を使わなかったから」
「そういう関係を、子供として、親に金を投じられる身としては羨ましく思う。でも男としては純粋ではいられない」
「何よ。男としてって。翼は格好良いよ。嘘じゃなく。でも、別にそういう古典的な男らしさゆえではないし、私はそれを求めていない」
「ありがとう。助かる」
 その瞬間の言葉には意味などなくて、声だけだった。
「全然納得していないのね」
 ほんの僅かな沈黙があった。サンルーフから覗く光の具合が一気に変わる。
「うん、そうかも。ねえ、インサイトを、お義父さんの車をそろそろ売ろうよ」
 唐突な提案、ではない。彼と私の中でしっかりと繋がった文脈だった。言うまでもないけれど
「そうね。いつか同居したら要らなくなるかもね」
「いい値段になるんじゃないか。保存状態もいい車だ」
「でももう少し乗る。今のマンションから出る時には小さいあれが楽なの」
「そうか。僕が君と住む家を買わなければならないか」
「急がなくていいよ。そんなの。繰り返しになるけれど、翼といる条件に経済環境は殆ど入っていない。私がお父さんの抜け殻を使い続けるのがそんなに嫌?」
「別に。でもあれはこの車とよく似ている」
「確かに。なんだかんだ言いながら、本当は趣味が似ていたのかもね。父さんはもう少し翼と話しておくべきだったと思う」
 本当に色々な意味で、そう思う。
「CR-Z、これは4人乗りだ。それにまだ税金が高くなるほど古くはない」
「そんなに新しくもないでしょ。それに後席はどう考えても奴隷船の狭さよ。実際非常食しかい置いてないじゃない」
「ご尤もだね。でも、ちょっと考えておいてほしいよ」
「解った解った。色々難儀なのね。そういうことばかり考えて。私がそんなに簡単に乗り換えそうかしら?」
 ダブルミーニング。
「この後、確かめさせてくれ」
 じっと遠くを見つめた瞳の不思議な光は、なるほどいつか見た父のそれと似ている。存在と不在。あることの安堵から導出される喪失への不安が宿っている。翼のそれには常に私が映っている。
「ガム食べる?」
「うん」
 半開きで待ち構える口に、ガムを摘まんでいない方の私の指を入れる。
「ぐっ」
「ふふっ」
「はあっ」
 熱い息と一緒に糸を引いた私の指が離れる。
「目覚めた?」
「驚いて事故るかと思った」
「これ、お父さんにもやったことあるわ」
 荒いままの息が聴こえた。それを見て少し笑えた。冗談、とだけ言ってはぐらかした。
「私ね、たまに思うのよ。エイリアンみたいに私の身体を破っていつか子供が生まれる。私達はいつかどちらかに先立たれる。その時に子供ってどう映るのかしら」
「止めてくれ。縁起でもない」
 高い声が響いてわざとらしい音は掻き消される。
「左の10tトラックにぶつかったら間違いなくこっちが潰れる。私は助手席に座っている」
「安全運転で帰ろう」
 翼には、苛立っている時の解りやすい癖がある。首飾りと耳飾りをしきりに弄る。
「よくあるじゃない。海外のアクション映画の意味不明なラブシーン。あれってきっと身に危険が迫る時のシグナルなんでしょうね」
 海外映画には、丁度今みたいな矢継ぎ早に台詞が交換されるシーンがあるな、とぼんやり思う。
「僕はそういうのを好まない。家も車も、君自身に関する全てをたかだか2時間あたりの映画よりもずっと長期で考えている」
「お父さんもそうだった。だけど、喪失は予定されないばかりか、事前通告もなされない。リマインダーは常に後からやってくる。いつまで貴方といられるか、私はお母さんの遺影を見るたびに思っている」
「いい加減にして。君は悪い冗談を好むところがある。こういう話で僕の情欲が高まるとでも思っているのか?」
 胸元の十字を千切れそうなくらいに握りしめている。祈るわけではないけれど、そうせざるを得ないというように。
「解らないけれど、必要性は高まってくる。危険性を察知する度に私と交配して、確証を得たくなってくる。お父さんにさえ、そういう感情を抱いてしまう貴方はなおさら」
 ギラギラと滾るように揺れる瞳孔が、私を静かに躍らせた。
「本当に、今日は覚えておくといい」
 翼の欲動の対象は常に私に向いていて欲しい、と思うのは、女の性だろうか。寄生したいとかされたいとかは思わない。それでも命のざわめきを聴き合うように私達は近くで、同じでありたいと思う。
「楽しみにしている」

 残された部屋は依然としてがらんどうのままになっている。喋らずに語る本が並んでいて、大柄なコンピュータが微かに音を立てている。遺影は動かず、音も立てず、放っておけば埃が積もる。外には物が満ち溢れている。しかし、そのいずれも私に帰してはくれない。
 視線が泳ぎ出すと、無意識はまた名残りを探す。椿とか、捻じ曲がった鉄とか、煙草の匂いに、懐かしい気配を覚える。いずれも手元にはない。
 翼が私を懸命に求める時は、常にそれが着床することを想像する。エイリアンみたいに口から入り込んだ精子が、私の腹の中で化けるところを平然と想像できる。そうして私の上半身を吹っ飛ばしながら生まれたそれは、また私と違う私になっていく。形は違っても機能は近似する。そうして誰かはそれと対峙し続ける人生を歩む。
 寝息を立てている精悍な顔を見ると、彼は私の下着や靴の臭いを嗅いだことがあるのか気になる。父が生前の母にそうしていたのか気になった。おそらくは亡くして初めて、慌ててそれを覚えようとしたのだろう。生きている間は好きなだけ相手の体臭を嗅げる。その行為自体に意味が見出せて、脇や股間の悪臭にさえ、恋焦がれている。
 けれど、不在はモチーフを生む。亡くなったものを想起するには、アイテムが、感性に訴えるものが必要になる。
 丁度、十字架を以てキリストを、キリストを以て神に想いを馳せることに似ている。翼の置いていったネックレスの小さな十字架が鈍く光る。銀が少し錆びるくらい、大事に使っているのは、私が自慰に使って先を血と愛液で濡らしていたのを、下手に寝たふりをしたまま、薄目で見ていたから?

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