訴訟機構 2
ウォーンの普及を州政府とその法律が後押ししたワシントン州では、街中を歩いているだけでも、恐ろしい量の警告を受信してしまう。公共交通機関やビルなどでも、事故が発生した際の責任の所在や、ありとあらゆる危険の可能性を警告する文章が流れ込んでくる。
問題は、これによってかえって消費者が守られなくなった、ということだ。
先程も触れたように、多くの問題が「ここに書いてあります」で済まされて、司法が真剣に取り合わなくなったのだ。
この潮流に便乗したいくつかの企業は本来取るべきとされていた責任まで、「免責」に追加するようになった。自由の国はこういう時に最も素早い。企業も市民も行使できる権利を余すことなく使おうとしてくる。
シアトルの弁護士連盟が不適切な免責事項を提示する会社を紹介するサイトを作った。企業側の姑息な責任回避を、一切躊躇しない文言で糾弾するサイトは瞬く間に拡散された。大手ITや飲食チェーンにも容赦がなく、ワシントン州では法律家と企業が対立する構図瞬く間にが出来上がった。
他州からは弁護士会が不必要に活動家的になっている、という非難が相次いだが、免責事項をめぐるトラブルが起きない日がない中で、自然な潮流という擁護もあった。このサイトをきっかけに不適切な免責事項に対して、是正を求める非買運動やシュプレヒコールを行うものまで現れた。中には大量の商品をバラで買って店側の端末をオーバーヒートさせることを試みるバイヤーズ・テロを行う様子を、複数のSNSで拡散する政治系インフルエンサーが続出し、警察沙汰になっていた。勿論、過激な行動に出たのは一部に過ぎない。しかし、常習的にこれを実施するサイレント・デモはその後も各所で実施された。
ウォーンがアメリカに留まらず、カナダやイギリスにも勢力圏を広げようとすると、この訴訟とそれを逃れようとする運動は国際問題に発展した。元々はアメリカの訴訟主義が発端であったが、今や「損を被れば法に訴えて金を得る」着想が国境を越えて波及し、根付きつつある。勿論、拡散はウォーンと同時で、どちらが先かなどというのは、今や不毛な議論だ。
通信の容量問題はウォーンがファイル送付型からリンク添付型になった半年前に無くなったが、依然として消費者訴訟を取り巻く状況は変わっていなかった。とにかくトラブルがあれば、リンク先に飛んで文章を読みましたか、で片付ける慣習が出来上がり、免罪文の威力は一段と強化された。
中にはAIが作成した免罪分を査定する法律事務所が現れ、訴訟への備えが商業化していった。いわゆる、倫理派と呼ばれる哲学者達が、「法律が市場に侵食される兆候である」と警告を鳴らしても、既得利権で肥え太った法律家は「大学から金を貰える学者の戯言」と一切耳を貸さなかった。訴訟で敗訴した日には、弁護士は本当に悔しそうな顔で、「文章が不足していました。改善します」などと宣う。
しかし、やはり世の常は栄枯盛衰である。
全く見当違いな努力が行われているとして、ついには、マクドナルド・コーヒー訴訟発生の地、ニューメキシコ州でウォーンはじめ法律系電子警告による文章を法律上無効とする州法が可決した。これを発端に脱ウォーンの流れは加速し、フロリダ、ケンタッキーが続き、次の年には二十の州がこれと類似した法律を可決した。
法律を殺すのもまた、法律である、とは言い得て妙である。訴訟主義の成れの果ては、人間の不在かもしれない、と多くの人が予感するようになっていた。大きく本旨を逸れた法律を作るのは、勝訴と「訴訟されない」を目的化したAIの仕事になっていた。しかし、法律で負けたくないという意識は人間に始まっていた、ということもまた、誰もが認める事実である。
先日、ウォーンの小売業及び消費者支援事業閉鎖がCEOのTwitterで発表された。理由は社会の需要の変化と述べていたが、実際には新しい消費者保護法制定のムーブメントが起因していることは言うまでもない。それは運用自己責任と呼ばれる旧来の自己責任論を練り直したような原則に基づいている。結果から言えば、これまでより企業や販売主体側に有利になるような法改正が各所で行われた。消費者は購買した物を運用する自由があるが、それを運用することによって発生する損得は全て行動主体(購買者)に起因するというものである。日本や韓国から見れば、当然の論理であるが、ここに帰着するまでアメリカの法律界は約三十年を要した。
これを代表する判決が下ったので、その一例を紹介しよう。
エナゲルというカフェイン入りのゼリー飲料がある。これを一日で十本摂取した少女が急性カフェイン中毒で心停止を起こし、死亡したというのが事の発端である。以前、エナジードリンクで同様の判例があり、この時には、製造会社に賠償金命令が下った。しかし、今回は製造元無罪となり、保護者の管理責任が問われる事態となっている。
この事件の場合、ゼリーを購入し、それを飲むということが、ナイフを購入し、それを腹部に刺してみる、ということと同義になったのである。つまり、手に渡った瞬間から企業側は責任から解放されるのである。勿論、これにはパッケージ裏の成分表示が正確であったことも踏まえられている。しかし、以前のようにアレルギーやカフェインに対する警告文は訴訟の過程で考察されることはなかった。内容成分が身体にどのような影響を及ぼすかを考慮するのは、消費者の責務であるとされたのである。エナゲルの製造元は「今後ともカフェインの過剰摂取による危険を警告する文章をパッケージに入れる」としながら、「どのような飲料、例えそれが水であったとしても、過剰に摂取すれば中毒症状を起こすという事実は明白である」と主張している。
遡及という事象はありえないが、この論理が適用されれば、マクドナルド・コーヒー事件も覆ることになろう。さらに言えば、自動運転やエアバッグなどは企業が責任を取らなくても良いということになりかねない。ネットメディアに関しては、閲覧をする、という行為そのものが運用と見なされるから、サービスが情報通りに提供されている場合、責任は取らなくても良いということになる。Cookieやアンケートを通じて渡った情報が適切に運用されているかを法的にチェックする方法はまだない。