北風と太陽、そのどちらも 1
蛇足
俺達の会社はオーディオ機器を中心にメディア家電を取り扱っていて、この東欧の小国での市場シェアは50%を超える。しかし、この類の製造業は一度購買層に行き渡ったら、革新的な新製品がやってこない限り買い替えられないことが多い。イヤホンはともかくスピーカーは厳しくなり続けている。特に最近は消費社会への反発を掲げる新興政党が躍進している。ドイツの環境テロリストに影響を受けていると思われるが、ほぼ環境保護を崇拝対象にした新興宗教で、支持者はこれまでのライフスタイルを抜本的に変える傾向がある。
さらに電気製品市場に追い打ちをかけているのは、電気料金の高騰だ。これも近年の急進的過ぎる脱石炭、再生エネルギーへの転換に起因する。おまけに国家の主力産業たる石炭の輸出が一気に減少し、地方の鉱山都市は軒並み虫の息だ。経済には暗い影が差している。国の財政担当が何をごまかそうがこれは間違いない。
日本からやってきたエージェントの齋藤はとても賢しい男だった。とても奇妙な思考回路の持ち主で、最初は誰も次の行動が予測できなかった。本社から送られてきた指導員は、ある程度の地位についていたとは聞いているが、とにかくトリッキーなことをしたがる。俺を含む現場の連中はそれにいつも振り回されていた。
「俺が仮の会社を作って、この製品だけを売り込む。それで君達には次に売り出すイヤホンのCMで凝ってほしい。これは少し長期的なプランになる」
そういって彼が取り出したのは、商業用スピーカーだった。そこまで大きくはないが、音量とデザイン性は他製品と一線を画していた。価格もかなり手頃だったが、単純な構造だから、後出で中国企業に参入されたら、市場は一瞬で模造品だらけになる。
「会社はこの国でスタートアップした新興ベンチャーの体を保ちたい。持ち金を使って初期投資をするけど、その後は少しバックアップが必要になるかもしれない。皆頼む」
などと言いながら、この男は瞬く間に根回しをして、あろうことか俺を新会社のトップに祀り立てた。
「いやぁ、日本からやってきた男が突然にこれを売りだしたら用心深くて保守的な国民は信じちゃくれない。ジャンがやってくれて助かったよ。
誰もが俺と齋藤を訝しげな目で見ていた。俺も齋藤を訝しげな目で見ていた。あと、俺の名前はジャンではなくヤンと読む。
「話は簡単で、こいつを全国の零細な小売商売をしている店に売り込みまくるんだ。あまりこういったものを設置するという価値観が無いようだから丁度いい。新規事業参入のチャンスだな」
この喧しく、見方によっては馬鹿らしい代物がこの国に普及するのか、俺自身半信半疑だった。
「しかし、そのスピーカーはどうやって使うんだ?」
「好きな音楽を店内や店先に流したり、同じ宣伝文句を繰り返したりできる」
「知っている。それが何になるって言うんだ?」
「良い雰囲気を演出したり、同じ言葉を客に刷り込んだり、そりゃもう色々」
「しつこいだけではないか?」
「おい、ジャン」
「ヤンだ」
どうやら齋藤はJをYの音で読めないらしい。
「小売店で一番重要なことは商品を知ってもらうことだ。サービス業で重要なことはその体験の価値を向上させることだ。そこで音は極めて重要な要素の一つとなりうる」
そんな御大層な演説紛いの説教を30分近く聞かされた末、それと同じ内容のブログを書かされた。
「悪いな。俺はここの言葉がさっぱりなんだ。英語版は俺がやるからさ」
ブログを執筆した分の金は広告料からそのまま入るという。つまり、雀の涙。
「俺は職業訓練校時代からせっせと就職活動に勤しんで、故郷で日本企業の支社に就職したんだ。こんな怪しげな商売なんて続けるつもりは無いからな。1年で結果を出せなかったら、この会社ごと辞めてやる」
「それは待った方が良いぞ。この国が新産業を基軸に発展しなおすにはもう少し時間がかかる。それまでは政府の後手っぷりも相まって、就職難が続く」
「俺はお前と違ってある程度ドイツ語が出来る。あてがこの国しかないと思ったら大間違いだ」
「それは悪くないな。しかし、ドイツ語圏も最近は難民を受け入れすぎて、若者は、特にここの地域出身の低賃金労働者は軒並み就職難だ。さらに先月、ここぞとばかりに最低賃金が下がった。これから失業率も上がるぞ。そこまでいい環境じゃない。あ、それとドイツ語が出来るんならブログにドイツ語版を追加してくれないか」
「クソ野郎!」