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きはじ 4

 立て込んだ仕事が一通り片付くと、逆に職場は暇になって、その温度差で風邪を引いた、ということにして数名は休む。勿論、マシロさんもここにはとうに来なくなっている。
「これは業界というか、この立場にいる企業の定めだから仕方ない」
 慰めにもならない決まり文句で俺を励ます上司に挑戦的に返してみたくなる。
「それは解るんですけどね。数週間ほぼフルで働いたんですから、俺にもマシロさん達みたいな追加インセンティブがあってもいいんじゃないですかね」
「お前はここの社員だろうが。あいつらは正直、動員するのも面倒なくらいに出世しやがった強者なんだ。昔は俺の同期だったり少し下だったりした。それがパッと辞めて独立したと思ったら、ひょいと頭角を現して、あっという間に家庭や持ち資産で俺を越えていく」
 若干のコンプレックスが滲んだ言葉尻のせいで、返しにくくなる。
「俺はな、お前もそういうやつだと思っているんだ。今は一番出勤態度がいいし、仕事も文句垂れながら全部やってしまう。数年に一度、そういうやつが入っては、そこそこ勤めて抜ける」
「なんか、マシロさんみたいなことを言うんですね」
 それがマネージャーにどういった意味合いで伝わるかを見たかった。挑発のつもりはないが、様子見の魂胆はあった。
「お前、まだあいつと繋がっていたんだな」
「はい、なんかすみません」
「いや、あれはお前みたいな男が好きだろうから、いいんじゃないか」
「気に入られているんですかね。でもどうして結婚しないんでしょう。色々な男と付き合うのが気持ちいいんですかね」
 続けざまに、自分にも跳ね返ってくる矢を飛ばしてみた。
「俺はあいつが結婚しないのは必然みたいな気がしているけどな」
「ちょっと、マネージャーもマシロさんと深い仲にあったんですか?」
「全然。俺はあいつに振り向かれるような男ではないって、なんとなく解るだろ」
 もう中年を越したところだが、彼はそこそこ男らしい格好良さを残している。それでも、マシロさんに好かれるタイプではない、という自己分析はなんとなく理解できた。
「まあ、はい」
「そこは否定しろよな」
 大柄な体躯も自覚せず、肩をバシバシ叩いて笑った。そういうところではないのか、とは流石に言わなかった。

 同じ線分の往復で完結する日々が変わろうとしていた。気付けば俺はここではないどこかに引っ越す準備をしていた。まだ誰にも告げていないのに、どうかしていると自分でも思っていた。ただ、七年付き合った部屋から次々と物は消えて行って、そのまま自分も南向きの窓の外に消えそうな予感がしていた。
 その年の勤労感謝の日、東銀座の路地裏のギャラリーに足を運んだ。胸ポケットには少し前にマシロさんから手渡された招待状があった。似合わない白シャツを着て、味気ない顔をしたまま電車に揺られる自分をずっと眺めていた。ともすれば、外側に溶け込みそうな反射した容が地下に入った途端に、明瞭に立ち現れた。そういった時は必然的に真正面の自分と目が合ってしまう。そうなった途端に、上手く説明できない薄気味悪さを感じて、目を逸らしてしまう。
 俺が生まれたころのSFに出てくるモノリスに似たビルの隙間の、小綺麗なギャラリーに彼女の個展はあって、馴染んだ絵の見慣れない飾られ方が、俺をどうしようもなくむず痒くさせた。どちらかと言えば、「可愛い」や一昔前の「萌え」に近い感情を想起させるコンピュータで仕立て上げられた絵が、大仰にプリントアウトされて、近世ヨーロッパの画家の企画展のように並んでいる。
 いかにも二次元が好きそうで、普段はこういったところに足を運ばない、と言うのは、いささか失礼だし、自分にも跳ね返る言い方だけれど、とにかくそういう人が、高級車しか通らないような路地にまで整列している。それでも屋内には黒く物々しいまでのスーツを着て、彼女の絵をじっと眺める男もいた。彼が何者か、想像するのが難しくて、色々と勘繰っていると、裏側から出てきたマシロさんが俺に目配せをした後、その男に話しかけていた。タブレットを片手に絵を紹介している。一枚絵を購入させたいのだろうか。或いはマシロさんが遊んでいる男の一人だろうか。あの男の年収は俺よりずっと上だろう、などという全く役立たないコンプレックスが湧き上がってくる。
 俺はいかにも訳を知っています、みたいな顔で絵を眺めていたが、普通なら一人自室の薄暗い場所で見るような絵を公の場で鑑賞することに妙な気恥ずかしさを覚えて、じっとしていられなかった。自分がそういう絵を描いていたから、というのもあると思うが、我ながら子供みたい挙動だったと思う。
「スミ、こっち」
 マシロさんが手招きをしていた。横には先の男がいた。
「はい、……どうも」
 どういった姿勢で挨拶をするべき人なのか、全く解らないが、とりあえず一礼した。
「後輩、と言いますか。前勤めていた会社の伝手で知り合った絵師です」
 絵師。自分がそう紹介されたことに気付くのに、数秒かかった。
「お話は伺っております。ライトモーションの速水です」
 名刺が差し出された。
「すみません、あいにくプライベートで伺っているもので、名刺を」
 見苦しい言い訳をしていると、マシロさんが助け舟を出した。いや、助け舟も何も、元々はこの人の引き合わせだ。
「大丈夫よ。色々話は通してある。ライトモーションはね、解りやすく言えば、広告代理店の下請けでクリエイターと広告元を繋げて、タイアップ企画を立ち上げる部門みたいなところ。速水さんと私は何回かそういう契約をしている知り合いでね、この前流れでスミの絵を見せたんだ」
 勝手に資料が流されていたことを糾弾しようとしたが、どこかそういうイベントに期待しながら、いくつかのデータを渡したのは自分だった。
「スミさんの絵には不思議な力があります。マシロさんや今の主流とはだいぶ毛色が違いますが、それは新しい市場を開拓しうるということです。絵師として大型の案件が来るかは保証できませんけど、間違いなく需要はあります」
 職業上のトークとはいえ、初対面の人に面と向かってこのような言葉をかけられるのは初めてだった。
「いえ、そんなお世辞は」
「やめなさい、スミ」
 飛び出しかけた言葉は即座に止められた。それも少し会場がどよめくような声で。
「ちょっ、周りに」
 主役たる絵師本人が会場にいることを、勿論ギャラリーの来場者は知らない。
「いいの。スミ、君は絵師で、商談の契機が目前にある。お世辞であっても、そうでなくても、今はどっちだっていいの。ただ、私はもう二度とこの機会を渡さないし、自然にやっても来ないと思う。貴方がすべきことは何?」
 貴方、という二人称が俺に向けて使われたのは、久しぶりのことだった。俺はその一瞬で、初めて真剣に色々なことを考えた。パノラマのように脳裏の景色が一巡して、再び俺の口は開いた。
「もし、やるとしたらどういった進め方になるのでしょう」
 一番近い呼吸の音が大きく響いて、声は周りにバレない程度に震えていた。滑らかに話が進んでいく。頭は情報の洪水に驚き耐えながら、懸命に考えている。
最後には、「やります」とだけ答えていた。
ギャラリーを出て地下鉄に乗ると、まだ会場に残っているマシロさんからチャットが来る。
「急に無理させたね。でも、良かった」
「最初から言って下さいよ、そういうのは」
 後付けの文句は無視された。言われてたら来なかったことも、彼女には見通されていたのだろう。
「丸の内あたりだと良くないか。この後、渋谷で会える?」
 そこには、先程俺に懸命に道を示していた大物絵師の面影は無かった。俺を持ち帰って弄ぶような、どうしようもない浮気性の先輩に戻っていた。
「はい、じゃあ銀座線の改札口あたりで待っていますので、また連絡ください」

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