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聖女と山猫の歌 上(全3話)

 溶かされた後のようだった。脳は確かに頭蓋の奥に存在しているけれど、中に電気や熱が通っていないようで、周りをまともに知覚することも難しかった。ただ、何かを奪われたことは解った。けれど、それは幸福なことで、ずっと望んでいた展開でもあった。もうこのまま、一生冴えなくてもいい。そう思った。
 泥を固めた人形そのものだと思う。不定形な存在であった自分を凝固させ、恰も一貫した、理性的で、模範的な振る舞いをしている。僕にとって、それは虚勢を張ることと同じだったし、他の人達もきっとそうなのだろう。しかし、全員が自由不定形な泥のまま、集合したら話にならないどころか、混ざってしまって仕方がない。だから、人形の型が必要になっている。そこかしこで同じことが言える。
 言い訳をしていた。時間を伸ばして、次に繋げるための、極めて生産的な交渉をしていた。それは見事に成功して、仕事は猶予を得た。完成度も上がった。その分、会社に拘束される時間は長くなった。何をやっているのかを、空では言えないが、目の前のスクリーンに映るものを片付けなければならないことは解る。
 終わる間際の書店に駆け込んだ後で、何が欲しいのかを忘れてしばし右往左往した後、外に出た。雨が降っていた。折りたたみ傘を出して、振り向くとシャッターを閉めに来た店員と目が合った。雰囲気だけどこか初恋の人に似ていたけれど、歯並びは悪くて、顔はどこか微妙だった。謎にバツが悪くなって、そこを立ち去った時、今日切れたペンを探していたことを思い出した。
 固く結ばれた糸が解けていくことに似ていた。緩やかな絶望の中で、どこにも逃げられない狭さに喘ぐ苦しみの内で、自分の強張った部分を解すだけの安らぎを味わった。もっと具体的なことを考えたいし、多分本当はそれもできるけれど、そうする意味が見つからなかった。風呂に浸かって天井を眺めて、覚えてもいないことを忘れようと試みた。とにかく頭に残ったのは、汚れた澱のようなものばかりな気がする。それが無くなるまで、じっとしていた。
 浴室の空気に彼女の残り香を感じた。別に美しくもない、色気もない、生物の匂いだった。どこかそれに安堵している自分がいた。近くに似た生物がいることを確認できる。自分のムダ毛を洗い流して、ふと排水口の奥を覗いた時、既にあるものと自分のものが絡まっているのを見て、さっきまでの知覚が嘘でないことが解った。
 カーテンの隙間から涼しい風と微かな光が落ちてくる。何気ないことばかりが半自動で熟される。顔を洗うと、少しだけ思考は明瞭になったけれど、それでやることに変わりはなかった。体が求めていたのは一杯の水だけで、それ以上はさして必要としていないような気がした。でも、拒否もしなかった。彼女が「食べたら?」とだけ言った。そうしてそれを食べる必要性が生じた。
「いただきます」
 また自分は形を失っていく。朝の光に焦がされるように緩やかに体の情報を変化させていく。例えば、目の前の自分とは全く違うタイプの人と話す時、僕はその人の形になっていくような感じがする。何か確たるものを頭のうちに持っていた時代が懐かしくなるほど、今の自分はそれと遠い位置にいた。しかし、それはいつかの時期に望んでいたことのような気がした。何かを成したいという意志を自分のうちに強く持つことは、それに束縛されることでもあった。何かを追い求めるには、何かを捨てなければならない。一方で、何も求めなければ、失う気にも得た気にもならない。やんわりと欲しいだけのものが、流されている自分の体の近くにあるか、遠くにあるかだけ。
 少し前に学生の頃に使っていたUSBが出てきて、夢をどうにか形にしようとしていた過去を、半ば強引に思い出させられた。自主制作を続けていた楽曲のデモ音源が入っていて、歌詞をメモした紙が乱雑にスキャンされていて、そこに青臭い全てが圧縮されていた。後ろから彼女の声がして。ハッと我に返った時、僕の手元はそれらを跡形もなく消し去った後だった。USBはまだ使えるけれど、クリーンかは解らなかった。前は随分と節操のない抜き差しを繰り返していた。その形跡が表面には残っている。消えかかった文字として。それだけは消せなかった。
 街にはぼやぼやと曖昧な光だけが彷徨いている。そう形容した時、視力の悪化を思い知った。日常生活に支障をきたしているわけではない。ただ、こうして人は静かに何かを喪失していくことを、その一瞬に悟った。それに味わい深い感傷を覚えていたが、嘆息にも感嘆にもならずに、雲散霧消していった。これが老いだと思った。
 少し前に新卒採用の一次面接を補佐した時のことが妙に残っていた。少し前までは染めていた形跡のある髪を黒に戻して、ピアスの穴が戻りきっていない耳をしっかりと出していた。決まりきったことを答え続け、自分の趣味や生活様式を聞こえのいいテンプレートに完璧に当てはめてきた彼を、僕はさした深堀りもせず通した。
 ただ、もう面接官はやりたくなかった。最後の逆質問で彼が聞いてきた問は、自分が読んでいた対策本の逆質問例とほぼ同じだった。彼の態度は一つの欠点もなかった。応答も何ら問題なし。しかし、僕は彼の凡庸な優秀さの演技に酷く吐き気を催した。勝手に、彼がガクチカと称した演劇部のことを想像した。そこでもう少し個性的で世間に楯突くことも言えそうな彼を思い浮かべた。彼がスマートな出で立ちで現れたことは、会社として、社会として歓迎すべきことであるのは間違いないが、僕個人はそのこと自体を何ら尊く思っていなかった。
 場所を埋める形をしていた。今の僕は常にそうだった。彼女と身体を重ねているときでさえ、そう感じる。自分はコンピュータに繋げるケーブルの端子に過ぎない。ただ合うような形をして、情報を流し込んでいる。とても機械的な仕草に思えた。マニュアルに掲載されている行為だと思った。保健体育の教科書ではない。もっと巨大で包括的なマニュアルが僕と彼女の存在を秘密裏に規定しているかのような気がした。それはマニュアル外の律しにくい行動の可能性を完全に廃していて、おかげさまで僕と彼女は快に身を任せることができた。僕は自分が上から覆い被さる時でさえ、どこかマゾヒスティックな気分だった。彼女は常にそれを見下していて、僕の要求する行動を取る。しかし、彼女が際立ってサディスティックなロールを演じているかと言われれば、そうでもない。これは僕の内的な動きの問題だった。
 僕は彼女を通じてしか、世間のうちに存在を認められないような心地をたまに味わう。欲動に身を任せる時でさえ、それは続いている。肉体が欲しているものが交換されるたび、これまで抱えてきた自分で自分を縛り付けていたものが解かれるような感覚に陥る。面倒ごとや高次の承認欲求は全て捨て去って楽になりなさい、とそう言われている気がしてならない。僕は今までそれに散々苦しめられてきたし、とにかく一刻も早く解き放たれたいとずっと考えてきた。仕事の間も、生活の隙間でも。しかし、僕の人生の大半を規定していたのも、その脱却しようとしている柵だった。
 どこまでも楽になりたい。しがらみの一切を忘れ去りたい。ただ、ただ、僕を機械にしてほしい。僕も彼女を機械として扱いたい。不規則な行動を取らない、正常な存在として、マニュアル通りに取り扱いたい。
 僕の体から快が過ぎ去った後、煙草を吸いにベランダに出ると、不思議なメロディを口ずさんでいた。それが学生時代に丹精込めて作っていたものだと自覚するのは数秒後だった。目の前がぐらりと揺らぐような感じがした。煙をじっと見つめて、ベランダにしがみつくように、正気を保った。
 彼女が、それ何の曲?と問うてきた。僕は古い洋楽の名前を適当に答えた。とても素敵なメロディだと僕が付け足すと彼女は興味を失くしたのかふーんとだけ零した。その続きの旋律は、最初から無かったかのように思い出せなかった。

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