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形体への隷従
形体:形(の情態)
私は形体を見ている。図形を見て、感情を催す。あるものは怒り。あるものは昂ぶり。あるものは悦び。
私は目の前の線が作る形状に脳の奥まで支配されている。全て了解している。そのメカニズムを人並みに理解している。それでいて、騙されることを容認している。
高く聳える二等辺三角形がある。それは支配の象徴である。私達の群体を統御する者が形を変えて現れているのである。これを前にすると、精神は安寧を強く要求するようになる。今の私のように、主体的な選択や意思決定を面倒な些事と捉え、巨大な奔流に身を委ねたくなる。そうしてそのまま目覚めたくなくなる。それが一種の怠惰であることは、古い哲学に記されていた。しかし、今は本能に従順であることが合理的であるとされている。故に、目の前には絶えず形体が示される。暴力的に、強制的に。
同心円が映る。水面に球が落ちた時の波紋のように広がる。そこから宥和と博愛をイメージする。頭の中に平穏を望む音楽が流れ、私はそれまで抱いていた、攻撃的な感情を忘却する。そして脳の電流は静かになる。全てを許したくなる。隣人との不和や、愛人への渇望や、父母への怒りと畏れ。煩わしく、刺々しいものは、覚えながら忘れる。不思議なことが起きている。かつて感情の根源となる忌まわしい出来事があったことは覚えている。しかし、それに今から干渉してやろうという企みやあの時ああすれば良かったという悔やみは雲散霧消する。そうして静かにそれを許せるようになる。目の前には同心円が広がり続けている。全ての場所で中心と同距離になる。包摂的で網羅的な円が、頭の奥まで侵襲してくる。
正方形が投影される。その正方形の内側に新たに正方形が生まれる。薔薇の花の簡易図のように、最初に現れた正方形の辺の中点に頂点を持つ形で、新たな正方形が生成される。それが繰り返されると、無限に続く円形の回廊を進んでいるような気分になる。それがどうしてかは解らないが、強い食欲を喚起する。蠕動運動をする消化器官を思わせるのだろうか、とにかく、食べられる気がする。口に食糧を運び込み、味を確認するためではなく、細かく砕くために咀嚼する。その間も正方形は生まれ続けている。四角がぐるぐる回り続けている。飲み込む。次の食料を手に運ぶ。私は、食料の名称も知らない。
十字型がある。二本の線を絶え間なく蠢動させている。収縮と伸長を繰り返す線、その交点、重力を感じる余白。それを見つめていると不思議な情感を催してしまう。これほどまでに生物としての直感に訴えてくる形体は気味が悪かった。それでも提示されると従わざるを得ない。私は、いや、おそらく私以外も、この形を示されると、激しい性衝動に駆られるのである。線の長さの変化が性器の動きに似ているのだろうか。それがこちらを挑発している。おかしいことであるとは解っている。しかし、性器という大方似た造形のものに、何万年も興奮し続けられる私達の方が、おかしいのかもしれない。ただ、これを見ると、誰か性的な対象を呼ばずにはいられなくなる。
中心、とにかくこれから動き始める形体の中心を見つめる。就業時間。今日のメニューは、機械生産プラントの検品。人間の目が必要なだけの単純作業の類である。形をチェックする機械を通過した製品の動作確認だ。先ほど見つめていた一点からは次々直線が伸びている。5方向に、3方向に、8方向に。とにかく中心から星を作るように伸びていく。長さも、数も無作為で、落ち着きがない。しかし、それを見つめていると不思議と検品の効率が上がる。しかも、その作業が酷く有意義に見えてくる。先ほどまで重たかった瞼がカッと開く。一心不乱に、しかし他の何にも注げないような集中力で、作業を繰り返す。雲丹のような、星のような、氷の結晶にも見える、この図形は、放散と拡大のイメージを伝えてくる。生産と活力とそれによる幸福、この社会に貢献している悦び、富を有り余らせる幸せが、手元の作業と連動しているという実感を教えてくる。6方向に、4方向に、10方向に、次々中心から周縁に手を伸ばす直線をイメージしながら、生産。検品。延々と作業は続く。何を考えようが、手元だけは止められないでいる。
噂に聞いた話では、泡や穴に似た円形の空洞が次々広がる形体が存在しているという。それは絶えず増殖と拡大を繰り返す薄気味の悪い映像だという。普通に過ごしている人がそれを見せられることはない。普通に、何も目立ったことをしなければ、それに晒される危険はない。その悪い形体は刑罰で見せられるのだという。集合体への本能的な恐怖を煽り立てる最悪な形を浴びせられる。どのような罪を犯せば、その刑に至るのか、それを私達は知らない。
もしかすると、全ての刑罰に悪い形体がついてくるのかもしれない。これが悪いことだと本能に刻み込むために、トラウマにするために、刑罰と最悪な景色をセットにして、一種のパニックを作り出すのかもしれない。勿論、確証は得られない。得るつもりもない。私は、ずっと善良でありたい。
今一度、三角形が提示される。小さな三角形は私だと思う。そしてその三角形は系統樹を遡るように上に向かって伸びていく。他の三角形を巻き込みながら、巨大な三角形へ統合されていく。三角形の足にはまた別の三角形、三角形の頂点はより大きな三角形の足元。そうやって図形は絶えることなくイメージされる。三角形は支配の象徴で、身を委ねたくなる巨大な力の顕現だった。しかし、その力は微力な私達の集合なのだ。ピラミッドが石の積み重ねであるように。私は、私達という意識に身を任せる。
食欲も性欲も、排泄も身を浄めることも、集団に奉仕する労働も、全て純粋無垢な快楽に変わっていくのを感じる。
形体を前に、その意味を考えるのは、野暮なことだ。ただ、提示されるイメージに、そこから喚起される情動に従えばいいのだ。動物のように単純であれば、罪を犯すことはない。この集団に背くこともない。謀ることなど考えつきもしない。
そして、また次の形体が示される。