Sleepia 2
都会の人為的統御の力学で飽和した空気は、一瞬のうちに山紫水明の豊饒と清浄を纏うものに変幻した。卑しくも酪農や放牧といった第一次の営為から離れた人間が、勝手に妄想した不潔さや下品さを象徴するそれとは無縁の、深奥な山林に満ち満ちた元来の天然の味わいが、体表に流れ込んでくるのである。塵芥を含まない霧の白、植物とともに呼吸しているという実感を抱かせる空気の透明。視界には無彩色のプリズムが鏤められている。
裸身は何も持っていないし、昨日までの短くない日々から一切の技能と資本を引き継げなかったかもしれない。しかし、それを疑問に思う理由も最早ない。雄大にして寛容な自然の息吹には潤沢な資源の予感が漂っている。個人と環境の関係に相互の呼吸を許す自明の必要十分条件が成立している。したがって、花粉の不快さを持たない巨木や、武力をそぎ落としながら戯れ合う熊、或いは鹿などは、人間本性と同質化する用意ができているのである。
今この肉体が受け取るのは有名無実な価格と信用の表象たる貨幣ではない。永久の隷属を希望したくなる価値とその源泉である。例えば水、空気、栄養価の高い果実、原生の芋類。それ以降は徐々に抽象的になっていく。ただ一度求めれば、このフィールドにどこまでも偏在していると確信できる。しかし、その直後に訪れる強い暴力性を伴った知覚情報がそれを押し流していく。微睡と言うよりは微酔であったかもしれない。そこから戻る時の刹那的な気怠さは特に、泥酔明けの朝に似ている。
シアトル・ゼネラルメディカルセンターが主導するシストを用いた実験の参加者は、その絡繰りや内情を具に知らされる。無論、企業と政府が公開できる範囲に限定されているが、理解に時間と労力を要する、膨大かつ高度な情報があり、その内容は修士までの勉学に耐えてきた私でも手応えを感じる。
「本日まで皆さんに受けていただいた試験で、シストが送信してきた情報の共通項は何だと思われますか?それは端的に表現すれば、不安がない風景です。人間は原初より脅威を推測する技能に長けていると言われます。他の生物よりも遥かに情報量の多い未来を予測することができます。それに対抗するための用意もまた、単純に食料を備蓄するような小動物とは異なり、遥かに緻密で高次元の慣習に化けて私達の中に息づいています」
実験を補佐する講師が説明するには、その不安は競争や協調の強い原動力として人類の進歩を推し進めた一方で、様々な軋轢の発端でもあったという。他者に裏切られる可能性、巨大な災害によって資材が一瞬で失われる恐れ、感染症や様々な物が備える毒性など自然との相克。人間は孤独で脆弱な個を想像すると、居ても立っても居られなくなる。
「分業と福祉によって人間相互の関係が強まった今でも、ストレスの本質はそう変わっていません。そこから脱却したことで得られる安堵感もまた、変わっていません。特に文明がここまで進めば、人間は脅威として他の人間の存在を意識せざるをません」
私は自分のメモを見返した。非実在の攻撃性を持たない動物に、排他性と競合性を予感させないフィールドは、まさにその象徴であると言えた。そしてあの世界においては、貨幣というものが存在しなかった。それどころか意識することすらなかった。メディカルセンターを出た後、紙幣を見てやっと、現実の貨幣経済を思い出したのである。
これは私の身勝手な憶測になるが、貨幣が登場しなかったことには、取引という現象が存在しなかったこと以上の意味がある。私の記憶は頼りなく、早くもぼやけつつあったが、あの空間において、私は決して一人ではなかった。複数の同種を確認できた気がする。少なくともその安心感は残っている。ともなれば相互に浅くない干渉があって然るべきなのに、それがなかった。
おそらく、あの貨幣というもの自体が信用に起源を持つからであろう。信用を具現化・数量化して相互にそれを担保するという現代においては当然の行為。ただ冷静に再考してみると、これは取引にあたる両者の潜在的な不信と表裏一体ではなかろうか。
物とその価値を示す貨幣が交換されることを複数人が認めると、契約は成立する。もしも、契約がどちらかの恣意で一方的に破棄された場合、もう一方は意味を喪失した貝や石、金属を手元に残すのみとなる。しかし、それを集団が広く認め、契約を破棄しがちな個体を特定した場合、当該個体と血縁関係者は契約不履行しがちな個体として群れに忌避され、結果として外部と取引することが難しくなる。つまり、ひ弱な人間にとって恐るべき孤立状態に陥るということである。この論理の上で、貨幣はそれを用いた契約を丁重に扱わねばならないというストレスを伴う緊張状態を暗示していると言えよう。
そう考えると、自然に溶け込めるような原風景を演出するために貨幣が抹消されたというより、貨幣という形で信頼関係を案じなくても良いように、友好的大自然のカムフラージュが利用されたと考えた方が、より合点がいく。すなわち、私達はあの瞬間、野生の狼の群れに戻ったのである。同種の共存共栄のために、全面的な信頼か前提のような敵対のどちらかしか選択され得ない。明確な形を伴った闘争のうちでのみ、調停は図られる。勿論、安寧を追求する夢の中で敵対は想定されなかったが、周辺の他者との損得関係を不信から遠ざけるという側面に限っては、原初の群棲に精神のレベルにまで還元されたのである。