訴訟機構 1
いきなりだが、マクドナルド・コーヒー事件を覚えているだろうか。もう前世紀のことだから、忘れた人が大半だろうけど、実はアメリカ社会の潮流を大きく変えた些細な、しかし確実なターニングポイントだ。
簡単に説明すると、ニューメキシコ州のとある店舗でホットコーヒーを注文した老人がコーヒーを零して火傷を負ってしまうのだが、この火傷がただ事ではなくて、皮膚移植を伴う結構な手術を要した。それでその老人がマクドナルド側を相手取って訴訟した。一見馬鹿げた裁判で、老人も自分に過失があることは解っていたのだ。でも火傷の悲惨さを斟酌してか、裁判では老人側が勝訴し、マクドナルドにはとんでもない額の賠償命令が下った。
老人の怪我の程度を考えればまだ理解出来るけど、店側もホットコーヒーを出して、客側の過失のせいで、客に対する支払いを求められるのだから、たまったものではない、というのが多くの人の考えだと思う。
それで、世間を大きく変えた、というのが、商品の表示規定なのだ。事件で老人が勝訴した後、「このコーヒーはHotです」とか「このアイスは冷たいです」といった文章が所狭しと並ぶようになった。ホットコーヒーなのだから熱いに決まっているし、アイスが冷たいのは当たり前だろう。それでもこの一文が重要なのは、たった一言で訴訟を免れるからだ。言うなれば、免罪符ならぬ免罪文だ。そんな宗教的な物ではないが、これを信仰する人は、今世紀に入ってから、急激に増えた。霊験あらたかな代物だから、当然と言えば当然だろう。
アレルギーに関連する事故にも以前より敏感になった。これは多くの先進国でそうだけど、裏側にアレルギー反応を起こしうる食品の一覧とそのうち何を含むのかの表示がある。
ただ、あそこに書かれている食品群だけに注意していれば安泰というわけでもないから、人体の免疫機構は恐ろしい。チョコや薬剤でもアナフィラキシーショックを起こす事例がある。多くはないけど、症状や突発性を考えると、誰も無視できない。そんなことを言ったらキリがないのは事実だ。しかし、消費者意識の高まりが、こういった細部にも目くじらを立てさせるようになった。
前から店側の責任を問う訴訟と客側の権利を守る法律はあった。ところが、最近はこれがどうも過激になっている気がする。ちょっと顧みてほしい。
もはや、知らない人はいない、ウォーン(Warn)いうアプリがある。
近頃、外出してこれが起動しない日は無い。しかし、着信をONにしていたら、喧しすぎて耐えられない。あれが何かっていうのは、この時代を生きる人に説明するまでもないけど、一応簡単に仕組みを解説する。
アプリは常に外部通知を受け取って、警告を発するようになっている。これは衣類量販店がやっている電子チラシと同じ仕組みだ。店側は客が財やサービスの決算を済ませた瞬間、アプリに向けて文章ファイルを送り付ける。そこにはずらりと免責事項が並んでいる。
例えば、ホットのソイラテをコーヒーショップで買う。そしたら、その瞬間、怒涛の勢いでこのコーヒーは熱いだとか、この飲料には乳製品・大豆が含まれている、といった至極当然の事項が所狭しと並んだ文章ファイルが送信されてくる。他にもカップは手から滑りやすくなっているだとか、蓋は内容物を完全に密閉しません、とソイラテ一杯でこの文書ファイルと殆ど同じ容量を食う。
あちらには不必要なフォントと不要な広告要素まで含まれていて、それらがバイト数を嵩増しする。これは深刻な問題だ。それが周知されて広告をウォーンに挟み込むのが禁止されたのは、つい一年前だ。その結果運営元は深刻な経営難に陥り、州や地方自治体の補助金に依存した運営に転換してしまった。
飲料や書籍ならまだいい方だ。それが火気を扱う道具や自転車になると桁が違ってくる。通信料は馬鹿にならないし、杜撰な人はこれを放置してアプリ、時には端末をもパンクさせる。
勿論、スマホ側の不具合でこれを受け取れなくても店側は責任を完遂したことになる。送受信は全自動だから、誰もスマホの不具合に気付けない。
それでも流石に車や大型家電は紙で渡される。これがまた物凄く嵩張る、なんてことは言うまでもないか。多くの人が経験していることだから。店側はこれを渡した瞬間に満足してしまう。大概の訴訟に対応できる免責事項の羅列が並んでいて、もし訴えられたとしても、「第何部の何項をお読み頂けましたか?」で済む。
容易に想像がつくだろうけど、これを丁寧に読み込んでいる人など、まずいない。店側もそうだ。AIとエキスパート数名が自動で起こりうるトラブルを予測して、法的に効力があると認められる文章で記述しているだけだから、訴訟に持ち込まれるまでは無用なのだ。