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聖女と山猫の歌 中(全3話)

 僕は顔を洗って、また同じ道を歩き始めた。メールを眺めて、報告書と資料をかき集めて、新人のOJT係を拝命して、上司と待遇を話し込んだ。とにかく忙しないが、そういったことは予定されていた。結構暇がないですねと新人が言ったので、手帳の付け方を教えた。管理すれば予定にあることなんて大したことはないんだ。問題は予定外の業務があることだ、と言った気がする。新人に凄い、正確なAIみたいですね、と言われた。褒めている?と聞き返すと、も、勿論ですよ、と彼は言った。嫌味に聞こえた、と返すと、必死に謝っていた。別にそうされたいわけではなかったが、それで溜飲が降りた。また少し自分を嫌いになった。
 そしてさらに嫌なことに彼の賛辞は本音だったらしい。喫煙休憩の最中、彼は自分がいかにAIに支えられた学生生活を送ってきたかを声高々に話した。少し変わった学部で楽曲制作の授業から翻訳の課題まで幅広く熟さなければならなかったが、その多くで、サークルで研究していた文章生成AIが研究していたことが功を奏したらしい。僕はこの社会で最も仕事ができるのはAIで最も高収入なのはその使い手だと思います、と言って今朝の日経新聞記事まで紹介してきた。そうだね、とだけ返した時、嫌な溜息が混じった気がする。もう彼の言葉に気を悪くしたのではなかった。ただ、自分がかつて懸命に譜面と向き合っていたことや、どこに行くでもない言葉を紡いで、一人泣いていたことなどが、底抜けに虚しく感じられた。
 工場で何が一番仕事をしているかと問われれば、それは稼働時間中一切手を止めないアームだろう。人がその精度を確かめていたり、スイッチを適当なタイミングで押したりする。機械と機械の間の運搬を行ったりもしている。ただ、それが一体何になるのだろう。明確な役割を与えられているのは機械の方で、人間がその補助役になっている。大袈裟ではない。そういった現場はいくつもあるし、これからも増えていく。僕は、家庭もやがてそういった現場になると思っている。
 僕と古い友達は、スピリッツや果汁で薄められた酒を好まなかった。とにかく濃いウィスキーをショットグラスに注いでから話し始めた。
 不思議と同期には院進や留年をする者が多く、ストレートでサラリーマンになった自分はむしろ孤独だった。彼等に抱いてしまいそうになる、優越感と羨望が酷く不快で、早くそういう前情報を忘れたいと思った。大概、そういったものは劣等感と同じだった。昔はそういったことを抜きに話せたはずで、今もそれ以外の話題が見つかるはずなのに、不思議と頭がリセットされない。
 それで最近の研究の話などを聞くのだが、次第に話が解らなくなってくる。とにかく引用先の書物や学者の言説についていけなくなる。
 昔は僕の方が、読書量も処理速度も上だった。しかし、いつからだろう、それらの変数は伸びるのを辞めた。今の僕には学問や文芸、メディアの潮流というものが、自分の遥か上空を流れる気流の動きのように感じられる。それは底知れぬ寂しさだけを胸の下に残して、どこか遠くへ吹き抜けていく。柔らかな酔いが回って天井が少し斜めになった頃、彼が言った。
「お前さ、もうスーツなんか脱げ」
「は?何を言い出すんだ」
「仕事を辞めろ。今のお前は、本当に疲れ切っている」
「まだ大丈夫だ」
「まだ?いつまでだよ」
 僕はウイスキーを仰いだ。喉の奥を指すような刺激と甘い香りがやってくる。
「平気だ」
 僕は言い切った後で多分と付け加えた。
「そうか」
 友達は俯いた。何かを考えているようだった。それで実際に何かを話した。でもそのあたりのことは全く記憶にない。最後に、僕が彼の部屋を出る時、「お前の曲、リンクスだっけ?あれ一度下北で聴いたやつ、良かったよ」
 と言われたことは覚えている。リンクス、山猫座をモチーフにした曲だった。陽の当たらない、見つけてもらえない才能の歌だった。
「そう言うのはもっと早く聞きたかった」
「言えない時期とかあったろ、お互いに」
 僕は別れの言葉もなしにドアを閉めた。夜風に吹かれて、顔の熱が抜けていく。スッと瞳の奥が冷えていくような感覚に襲われた。涙が出そうになって、出ない。意味も解らない。前に誰かが言っていた酒鬱かもしれない。それなら、交通量の多い車道に踊り飛び出す前に、危険な国道沿いを早く抜けて、自室に帰らなければならない。
 気付いたら、ソファに沈み込んでいた。少し懐かしいメロディが流れてくる。きっと幻聴だと思った。もう夢の中なのかもしれないと思った。少し腰が痛い。体勢が悪いのだろうか。狭い座面で寝返りを打つ。彼女の笑顔が見える。その口元からは、やはり懐かしい音が聞こえる。
「どうしてそれを?」
「出会ってすぐの頃に聴かせてくれたでしょ」
「そうだっけ」
 本当はその日のことをよく覚えていた。他人行儀に趣味を聞かれて、気恥ずかしそうに、実際気恥ずかしくも、音楽制作です、と答えて、それを聞かせた。
「不思議ね。そんな大胆なコードじゃないって言っていたけれど、まだ耳に残っている」
「それを大事にしてくれるのは、君と、君とあと数人だけだよ」
「そう、あなたにとっては大事じゃないの?」
「どうだろう。前は大事だった」
「疲れている?今日はもう寝る?」
「いや、水飲む」
「ちょっと大丈夫」
「大丈夫」
 僕はつっけんどんに返事をした。冷たいものを喉に落とすと、胃が少し驚く。首元に溜まっていた痛みを伴う熱も俄かに消えていく。まだ意識はぼんやりしている。
「少し風に当たりたい」
「蚊に刺されないようにね」
「うん」
 僕はベランダに置いた小さなベンチに腰かけて、煙草を取り出した。
「吸うの?」
「うん、服はちゃんと払うから」
 彼女は、少し煙たがる仕草を見せて、扇風機をこちらに向けた。
「ありがとう」
 それが善意なのか、煙たがってのことなのか、解らなかったが、どちらでもよかった。少しだけ、心地よい。
「シャワー、浴びてくる」
「まだ浴びていなかったの?」
「うん、あなたも浴びなよ」
 僕は生返事をして、煙草に火をつけた。まだ少し視界が揺れる。思っていたよりもずっと酔っていた。星座が不思議な形を作っている。
「昔は決まりきっていなかったよな、恒星の形とか」
 変な独り言が漏れた。曇りがかった灰色の空に白い煙が溶けて、混じっていく。焦げた干し草とミントの味が口に広がる。それがコーヒーの後味に似ていると言ったら、後輩に笑われたっけ。どこの後輩だっけ。顔だけが思い出せる。
 あてどなく山猫座を探していた。見つけるには山猫の視力が必要と言われた、3等星以下の集まり。当然見えなかった。まず、大熊座さえ見えないような日に、見つかるはずもなかった。あの曲のことを考えていた。彼女が口ずさんでから、離れなくなった。
「あがったよ」
「うん、入る」
「ちょっと待って」
 振り返った僕の口を彼女の唇が塞いだ。
「どうしたの?妙に積極的じゃん」
「いや、別に」
「酔っている?」
「さっきまで酔っていたのはどっち?」
「じゃあ」
「悪い?」
「悪くない」
 彼女は冷蔵庫からビールを取り出して、細い喉に注ぎ込んだ。
「酔うのはこれからにするつもり。早く風呂入ってきて」
 彼女は風呂場を指さす。僕はその通りに歩く。
 湯に頭を晒して、脳の澱まで取ろうとする。無駄なこととは知りながら、そういう仕草をする。湯船につかると、微かに彼女がさっきまで浸かっていたことが感じられる。何でそう思うのかは解らないが、とにかく沸かしたばかりの湯とは少し違う。排水溝の長い髪の毛を思い浮かべる。彼女がビールを飲んでいること、その後に性欲が強くなること、行為の前には必ず香水をつけていて、それは首元から一際強く香ること。そういう細かいものをいくつも列挙して、思考の枠に敷き詰めた。仕事のことを追いやろうとしていた。給料は良くなっていた。僕は多分、いや間違いなく、仕事ができた。それを彼女に認められている。結局、不可分なのだと思い知る。仕事と彼女、生活、友達。それらが紡ぐ金と愛とかその類。全てが僕を介して繋がっていて、何かを切れば、別の何かに極度に依存する弱い体質に戻ってしまう。ただ、今は仕事を忘れたい。最初に世話になった上司は温厚で、しかし、どこかに必ず嫌味や皮肉を宿すような人だった。それがどこまでも気に入らなくて、勝手にこの社会の縮図のように思って、いや、いい。今は忘れたいのだった。
 僕は待っている彼女のために体を洗う。潔癖症のように綺麗にする。それに集中する。やっと心は穏やかになっていく。別のことを必死に思い浮かべることによって。

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