見出し画像

Random Sampling

Sample1


 灰白色の冬空に溶けそうな飛行船。遠くから聞こえるノイズ交じりのサイレン。足元の働き蟻。靴紐を結び直して、然るべき時間を待つ。全てはそう、然るべくして。
パノラマ或いは瞬きのようにイメージは連なる。ここにきて止むに止まれず、更新は続く。普段は雑踏に紛れてしまう呼吸の音が、静寂のうちに彷徨うそよ風のように浮かび上がる。
 男(892746381925)は女(489263175092)と出会う。予定通りの場所、予約されていたフロア、打ちっぱなしのコンクリートに鮮烈な色彩の文字列が印象的な場所だった。窓際の席に向かい合って腰掛けた初対面の2人は、メニューを見て会話を決める。これから運ばれてくる食事を決めることが、この場でできる唯一の会話だから、自ずとそうなってしまう。
「ジェノベーゼ」「アラビアータ」
 2人は水を飲む。窓の外を眺める。
「そう言えば、飛行船を見た」
「私も」
「あれ何をしているんだろう」
「何か見ているんじゃない」
「見ているって、誰が?」
「さあ、マザーかな」
 マザーというのは、この社会を支配する人工知能の総帥とも言える機関の呼称である。ここで注意するべきなのは、これが実態ではないということである。ただ、なんとなく、私達を取り巻いている、そういう漠然とした、雲の上の、或いは大地の下の、マザー。どこかで、何かで、私達と関係しているはずの、マザー。
「僕はさ、たまに思うんだ」
 男(892746381925)は切り出す。
「僕達を支配しているのは、人なんじゃないかって」
 女はくすりと笑う。
「無理よ。そんなの。だって眠ってしまったら、全部を忘れてしまうのが人よ」
「本当にそうかな。実は違うと思うんだ。確かに僕達は明日にはお互いの顔を覚えていない。このパスタの味も忘れる。そしてまた似たことを繰り返すだろう」
 女はパスタを巻きながら頷く。滔々と流される話には興味がない、ということを隠しもしない。
「でも、どこかには相手を識別できて、自分が何をやっているかを俯瞰できて、しかも日々の生活を記録に残せる人がいるんじゃないかって」
「いないわ。いたとして、そういう人が私達を統御する理由は何?」
「蟻」
「え?」
「蟻みたいな。働き蟻みたいな感じだ」
「どういうこと?」
「僕達の言語は神経伝達物質なんだ。それでただ表面的な対話と与えられた行動を繰り返す」
「ふーん」
「でも、コロニーの核になっているそれは確かな自律性を備えていて……」
「パスタ、伸びちゃう」
「伸びないよ。スープがないんだから」
「じゃあ、冷めちゃう」
「そうだね。いただきます」
 男(892746381925)は言おうとしていた文字列をパスタと一緒に押し込む。そうして、もう二度と出ることはない。女(489263175092)が自分の言葉に関心を持っていないこともいい加減解っていた。なぜなら、男(892746381925)も女(489263175092)に興味がなかったから。
 パスタは緑色の渦になる。口に放り込まれてにわかに主張は終わる。
 男はなおも訳もない台詞を吐く。
「ちょっと交換しよう」
「え?いいけど」
「違う味も楽しめた方がいいじゃん」
「どうせ忘れるのに」
「忘れるから。多分、この味はまた食べるんだと思う。でも、この味をこの感性で受け取るのは今日が最初で最後になる」
女(489263175092)は、そこにオチがないことを了承して、譫言のような返事をする。
「不思議な人ね」
「僕が不思議な人でいられるのも今日だけだ」
「それは確かにそうね」
 上ではプロペラのようなシーリングファンが代わり映えしない風景をコマのように区切っていく。空疎な言葉遊びは幕間劇の一つになっていく。
「美味しい」
「あんま美味しくないでしょ」
「かもしれない。でもそれなら、もっと美味しいパスタを知りたいね」
「ええ」
「この後どうする?」
「どうするも何も、決められたことをするだけでしょ」
「でも、ちょっと買い物していかない」
「買い物?買うとしても消え物ね」
「勿論だよ」
 美しくも気高くもない両者は、古い獣の真似事をして、その空虚な悦楽に浸り切る。身体は踊っている。スクリーンの白い光が、その場に隠されていた万物の影を映し出す。ほのかに香るイランイランの匂いが、本質である。少なくとも男(892746381925)はそう思う。
「天球に白い穴。いや、天球が穴で白い球の方が存在しているのかもしれない」
「どんな陰謀論?」
「どっちが?」
「天球に白い穴って方が」
「そうだね。僕達は月が穴じゃないことを知っているね」
「ほんと、変な人」
「僕のこと嫌い?」
「嫌いでも好きでもない。でも、もう二度と出会わないかもって思ったら、さっきランチしている時より話を聞く気になった」
「へぇ、それはありがたい」
「ちょっと悲しくならないの?」
「何が」
「そうやって色々考えても、何言っても、明日になれば、全部消えているの」
「うん。悲しい」
「私も変人の希少性を忘れる。忘れて、また貴方に、もしくはまた別の人に、変な人ね、って言う」
「とても悲しい」
「私ね、何となくその寂しさだけは覚えているの。だから、あまり強い思い出を作りたくなかった。だからもう二度とあなたを思い出せないと知りながら、あなたにまつわる感傷だけを残すような真似は止したいの」
「僕は、その逆を行くよ。素敵な感傷はいくつでも作る。明日には顔を忘れるとしても、今日は本当に、本当に月が綺麗だ」
「何それ」
 女(489263175092)は失笑した。男(892746381925)も苦笑した。

Sample2


 起床すると昨日の情報は何一つ手元になかった。ただ、微かな感傷だけを残していた。鮮烈な光を見た後の眩みみたいなものが、脳の奥で蠢いている。
あの女(????????????)の手元にも、自分の情報はないだろう。排水管に流れゆくトイレットペーパーと同じで、もしかするとどこかに絡まっているかもしれないが、上からは見えず、外に何の影響も及ぼさず、それはすなわち無いのに等しい。
 続く生活を保障する仕事がタスクマネージャーに舞い込んでくる。男(892746381925)は仕事をする時、いつも風車を思い浮かべる。なぜかは解らない。
そしてその風車に発電装置はない。絡繰り仕掛けもない。動力を生み出さない小さなプロペラだけである。しかし、周囲の全員が、それが回っていることを歓び、褒めている。自分がしていることは風車の回転に同じ。そう思うことにしていた。
しかし、どこかでは自分の仕事が原子力発電所のタービンになり得る、という期待も捨てきれないでいた。多くの人間は褒めるどころか認識もしないが、確実にこの社会を推進する動力となっている。何かを作り出す糧として役立っている。
人の仕事は風車あるいはタービン。どちらかは後になってみなければ解らない。その「後」に自分の精神は存在しない。すなわち、この、人の労働を風車に例えてみたりした男(892746381925)は、今日のうちに立ち消える。
今朝、老いた男(317582964013)が同じ職場に来ていた。前に会ったことがあるかは解らない。ただ、意識したのはこの瞬間が初めてである。
「君は俺の息子かもしれないな」
 この男(317582964013)の言葉に男は(892746381925)ぎょっとした。どうして突然そのようなことを言い出すのだろう。その真意は測りかねる。
「いや、でもあまり似ていないじゃないですか」
「昔会った女(????????)に似ているんだよ。口元がね」
「それなら、あるかもしれませんが」
「いや、ごめんね。作業を中断させてしまって」
 男(892746381925)は凝り固まった肩を解すためにビルの屋上に出た。このビルの屋上が解放されていることをなぜか知っていた。
 薄青色の高い空に寒風。遥か遠くに素知らぬ顔をした飛行機雲があって、二分された天球に白煙が登る。どこかで聞いたことがあるサイレンが鳴る。あの飛行機には誰が乗っているのだろう、とふと疑問に思う。

Sample3


 もう長い間空を見上げていない気がする。実際はどうか解らないが、そういう気分で目覚めた。
 男(892746381925)は、なおも女(702198365240)と出会う。両者は与えられた役割を果たす。互いの要求に応える形態をしている。そして事が終われば別れ、もう二度と、いや、会うことはあるのだろうが、同一人物と識別することはない。
男(892746381925)は何度目かの物語を聞く。仕事の愚痴と前の恋人はこうだったという抽象的な記憶。なんと話がつまらないのだろう。しかし、その話に出てきた前の恋人、その薄寒い人格はかつての自分の可能性があるし、これから女(702198365240)は自分の話をこうして将来の自分に聞かせる可能性がある。そもそも彼女の話が面白くないのは、その記憶が精細さと固有名詞を欠いているがゆえであって、それは自分にも言えることだった。男(892746381925)は、もっと女(702198365240)に同情的になるべきだったと思い返して、少し後悔した。
 しかし、話を聞きながら楽しげな顔をすることでさえも苦痛だった。苛立ちというよりも、悲しみで顔が歪む。何とか目の前のハンバーガーを口にした。新鮮さを失くしたピクルスの酸味が、不快だった。もうハンバーガーは食べない、と思ったが、明日にはそれも忘れて、ともするとこのピクルスを美味しいと言うのだろう。

Sample4


蓋し、性別の違う個体も部品に過ぎないのである。だから、特定の形を持ってさえいれば、識別する必要はない。
 ボルトとそれを嵌める穴、社会を構成するパーツ群。自分が目の前の女(=RANDBETWEEN(00000000,99999999))を識別できないのはどうしてだろう。古いテレビの砂嵐のような空がどこまでも素っ気ない。
 目の前のサンドイッチのパンがトマトの汁気を吸っている。レタスはまだ青く脈に透明な血液が流れているようである。それを咀嚼する相互を眺めながら、男(892746381925)は女(=RANDBETWEEN(00000000,99999999))の人生を、女(999947829998)は男(=RANDBETWEEN(00000000,99999999))の人生を、考える。それは目の前にいる個体の経路のことではない。もっと普遍的な雌雄についてである。そのことを男(892746381925)は堪えきれず、そのまま話してしまう。どうしてそんなことをしたのかは解らない。女(999947829998)は笑いながら、「同じことを思っている人に初めて会った」と言った。男(892746381925)は、そのことに感動して涙を流した。女はさらに笑った。その時できた笑窪で、男は女(999947829998)の顔を記憶しようと試みた。それはまさに、画一的に生産されるネジやナットの一つに、ナイフで傷を付け、それが巨大な機械に組み込まれた後に、たった1つのパーツとして探し出そうとするような無謀さだった。

Sample5


 男(892746381925)は女(????????9998)の顔を忘れた。記号的な名前も忘れた。男(892746381925)は仕事も上の空で、思い出すべき時間の定義域を考えていた。あの女(????????9998)がどんな感じだったかと聞かれたら、顔も声も仕草も特徴を全て忘れていて、答えられない。悲しいことに、その後彼女と会っているかどうかも解らない。
 笑顔を記憶していたはずが、どんな感じだったかも、薄っすらとも思い出せない。確か左に笑窪があって、ちょっと待てよ。向かって左だから右か。いや、そもそもあったかな。一緒に食べたのはパスタか。それともハンバーガーか。そのまま意気投合したことは確かで、その後も長く語り合った。初めて本心を話した。うん? その前にも一度あったか。その時は嘲笑されたから忘れたいのか。あの女(????????9998)も笑ったか。でもその笑みは許せたし、むしろ慰めだったと思う。美化しているだけだろうか。とにかく過去は混濁していく。固有名詞は夜ごと剥奪されていき、何もかもが一緒くたになっていく。それは時間の流れと同じで止めようがないことだった。
 藍色に染まる空に思索ともつかない世迷言を溶かして、男(892746381925)は一人笑った。その時、滲んだ視界に入った、眩いばかりに赤い星を見て、ふと思った。大概の人は星を区別できない。浮いているそれが何かとか、解らない。ただ、そこに昔は何らかのイメージがついて回っていた。大胆な空想上の造形が浮遊していた。そうやって人々は記憶できていた。
今は全てが記号に置換されていて、流星群がどこからやってくるからこの名前とか、そういったこともない。

Sample6


 今朝、初めて見る若い男(361928475031)が同じ職場に来ていた。昨日や一昨日も来ていたかは解らない。とにかく彼に意識を向けたのは今日が初めてだろう。彼の笑みは昔どこかで見た女(????????????)に似ていた。それがかつて自分の思索を受け入れてくれた人だったかは解らない。ただ、どうしてか懐かしさを感じた。
「君は俺の息子かもしれないな」
 嘘のような言葉が口をついて出た。若い男(361928475031)は笑った。
「はは、面白いこと言いますね。でもどうでしょう。その可能性は結構あります。僕もそんな気がするんです。明日にはどうせ忘れるでしょうけれど」
「そうだな。作業を中断させて済まない。忘れてくれ」
 男(892746381925)も作業に戻った。それは、12桁の数列を無作為に全国民に割り当てる業務だった。聞くところによると、毎日0時に更新があり、その数値は全て置き換わっているとのことだった。

いいなと思ったら応援しよう!