フットボールを生きる街 #14 アイデンティティ
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“No puedo ser sevillano pero sí, puedo ser sevillista.”
- António Alberto Bastos Pimparel “Beto”
「わたしはセビージャで生まれることはできなかったが、セビジスタにはなれた」
彼らにとって「自分」と「他人」の線引きは、国籍や人種や言語によって行われるものではない。
愛するもの、守るべきものを同じくするなら、たとえ外国人でも、ほかにひとつの共通点もなくても、家族になれる。それは選手であっても、サポーターであっても変わらない、彼らの価値観である。
冒頭は、2016年までセビージャFCに在籍していたポルトガル人ゴールキーパー、ベトの言葉である。その年のリーグ最終節、ウルトラスは盛大なコールでベトを送り出した。ベトはというと、大粒の涙を流しながらエンブレムにキスをして忠誠を示した。
そのウルトラスの呼称である「ビリス・ノルテ」は、かつてセビージャでプレーした伝説のガンビア人プレイヤーの愛称「ビリ・ビリ」にちなんでいる。彼の魔法のようなプレーは、セビジスタたちの絶大な信頼と愛を勝ち取っていたという。
「初めてその地に足を踏み入れたときから、セビージャは永遠に自分の、世界一の街になった。この街と、この街のフットボールに恋に落ちたんだ」
こう教えてくれたのは、セビージャFCのためにアルゼンチンから移住してきた青年だった。セビージャ出身ではない彼がクラブ同様この街に強いアイデンティティを感じているのは改めて確かめるまでもない。
初めて自分のシーズンパスを握りしめてサンチェス・ピスフアンを訪れた日のこと、右も左もわからずゲートの前で右往左往していたわたしに優しく微笑みかけてくれた人がいた。ここでも右は右で、左は左で、フットボールはフットボールなのだと教えられた気がして、深く呼吸をした。
1年間スタジアムで「ご近所」だったセビジスタは皆、昔からの知り合いか親友の娘に接するようにわたしのことを気遣ってくれた。
“Ser de Sevilla” と、“Ser del Sevilla” は、類似した表現であるものの必ずしも同義ではない。前者はセビージャの出身であることを、後者は、セビージャFCというクラブへの「所属」を表す。クラブを取り巻く全てを自分にまつわることとして感じるからこそ、彼ら、正確にはわたしたちは、所属に言及することでクラブへの愛と責任を明言している。
“Yo soy del Sevilla.” と口にするとき、わたしは誇らしくも、どこかくすぐったくも感じる。そして、それに対してセビジスタが微笑むのも、ベティコがわざとらしく表情を歪めるのも、種類は違えども「受容」を意味することを知っているからこそ、その両方をたまらなく愛おしいと思う。
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ホームタウンで生まれ育たなくても、そこに住んでいなくても、毎試合スタジアムに行くことができなくても、「彼ら」は「わたしたち」になる。この街のいちばん好きなところは、彼らがほんとうの愛によっていちばん強く連帯しているところにあります。