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フットボールを生きる街 #02 誇り
02
“Cuentan las lenguas antiguas que un catorce de octubre nació una ilusión.
Su madre fue Sevilla y le prestó su nombre y para defenderlo le dio a una afición”
- Himno Centenario del Sevilla FC
「古いことばは語る ある年の10月14日に ひとつの希望が生まれた
生みの親はセビージャという街で その希望に自分と同じ名を付けた
そして子どもを守るため ある愛に託した」
- セビージャFC 100周年記念イムノ
吸い込まれそうな深く青い空、白く塗られた家々が連なる街並み、情熱的なフラメンコや闘牛、厳かで壮大なセマナ・サンタの行列。これらはしばしば「スペイン的なもの」の代表例として語られるが、実際はアンダルシアに特有のきわめてローカルな光景である。
フランコ独裁体制下の中央政府は、観光立国の実現のために、鮮やかで個性的なアンダルシアの色彩を、あたかも普遍的なスペイン文化であるかのようにえがいた。この恣意的な同一化が、アンダルシアの持つ真の特異性を、国家の商業的イメージの中に埋もれさせてしまった。
しかし、強引な政策を以ってしても、アンダルシアの人々の情熱まで奪うことはできなかった。むしろ、「自らのもの」をないがしろにされた屈辱が、かえって彼らに火をつけたのだ。彼らは、残された「自分たちのもの」を、誰よりも情熱的に、誰よりも特別な方法で守ろうとしている。
そのひとつの発露こそが、サンチェス・ピスフアンに充満する異様な熱気の正体である。
街と人々とクラブが、固有の価値やアイデンティティを守るために連帯している。一方で、彼らにとってのフットボールは、自分と街を同時に代表することができる、権威に対する唯一の発言力でもある。
皮肉にも、大都市のスタジアムの中には、すっかり観光地化してしまったものもある。
巨大な鉄筋コンクリートの容れ物は満杯になってもどこか静かで、その中にいる人々が何者なのか特定することができない。まるでミュージアムやアミューズメントパークにいるかのような匿名の集団が、展示物やアトラクションとしてのフットボールを消費しているように感じることがある。
対して、サンチェス・ピスフアンの観衆は実におしゃべりで、自己主張が強い。自身のクラブに対しては、愛情深く献身的であると同時に要求も高い。
彼らは、そんな風にはっきりした方法で、時には強いことばとともに自分を表現することで、譲れない価値や存在意義を守ってきたのであり、これからも守っていくのだろう。
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はじめて聞いた日から、セビージャのイムノ(アンセム)を聞くと涙が出ます。試合前、これを聞いてふるえるためにスタジアムに通っていたと言っても過言ではないくらい。本当です。