フットボールを生きる街 #05 おまえに会いに
05
“Aquí no vemos un espectáculo; aquí vamos a ver a nuestra vida.”
- José María
「いい試合を見るために来たりしない。おれたちは自分の人生そのものに会いに来るんだ」
スタジアムに出かけることを、彼らは、「試合を見に行く」ではなく「チームに会いに行く」と表現する。セビージャFCのイムノ・センテナリオにも、「だから今日もおまえに会いに来た (”Y es por eso que hoy vengo a verte”)」という歌詞がある。そのことを、ずっと不思議に思っていた。
「いつもは仲間と連れ立って行っていたゴル・ノルテに、初めてひとりで行った日、セビージャの最初のゴールが決まった瞬間、自分が間違っていたことに気づいた。人生で初めて出会ったひとが、まるで本当のきょうだいにそうするかのように自分を抱きしめる。それも、次々に。自分は間違っていた。この場所に、『ひとり』でいることなどできはしない。ここにいるのは、45,000人の家族なのだと知った。」
ある青年がこう明かしてくれたとき、わたしは、長いあいだ抱いていた疑問の答えが、この場所に集う人々が無意識のうちに共有する連帯につながるということに気付いた。
彼らは、お互いに、名前も職業も知らない、性別も、年齢も、宗教も、政治観も、経済状況も、自分との共通点はたったひとつを除いてないように思われる人とも、その「たったひとつ」を理由にかたく深く連帯している。
言うまでもなく、その唯一の共通項はクラブへの不変の愛である。
彼らひとりひとりがチームにささげる喜怒哀楽の発露が同じ瞬間に起こったときにはじめて、その連帯も表面化する。
スタジアムで彼らが求めているのは、ゴールや勝利そのものよりもむしろ、それらによって顕れるスタジアム全体の連帯なのではないか。
チームはスタンドを煽り、スタンドはそれに応えるように一層ヴォルテージを高める。その瞬間の、すべてがひっくり返るような快楽を求めて、人々はスタジアムに集うのではないだろうか。
スタンドの、チームとの、スタジアム全体との、圧倒的な連帯。それは確かに、ただ「試合を見ている」だけではめぐり合うことのできない感情である。
「応援する」にあたる "alentar" というスペイン語は、「呼吸する」という意味も併せ持つ。このふたつの語義は、辞書のページの上のみならず、試合の日のスタジアムでも隣りあわせである。つまり、彼らにとってチームを鼓舞することは、呼吸することと同じぐらい自然で、当然で、身体に染みついた行為なのだ。
彼らは試合を見ているのではなくて、その瞬間を、試合の内に生きている。街や、家族や、友人とのつながりを再確認し、呼応しあい、フットボールを生きている。そこでは、試合の勝敗は、重要ではないとはいかないまでも、最大の目的ではない。チームが勝っても、そこにわれわれがいなければ意味はない。チームが敗れたとき、われわれが不在だったならだれが彼らに手を差し伸べるというのだ。そう信じて疑わないからこそ、日曜日が来るたびにセビジスタたちは愛するチームに会いに行く。
「一週間、おれたちに会えなくて心細かっただろう?おれたちも、待ちきれなかったよ」
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人生だから、いいときもわるいときもあるのです。家族だから、仲良くしたりも、喧嘩したりもするのです。でも家だから、結局みんなここに帰ってくるのです。
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