旅とチャバコと些細な後悔
去年10月。旅行をする機会があった。
普段は「燃え滓」でも「黒井燃滓」でもない別名義でゲームやら何やらをしている私だが、10人以上友達がいる。少なくとも、私を呼んでコテージに3日間ほどいて良いと思ってくれる人たちがいる。
そんなわけで、千葉県某所に存在するコテージ……書いていて不安になったがアレはコテージで良かっただろうか。まあなんというか、そんな場所を借りてみんなで大いに楽しんだ。
旅行は、同行者というか私を宮城から千葉まで連れて行ってくれた彼氏の車にエンジントラブルが発生するという大きなトラブルはあったものの、何1つ不満のない楽しいものとなった。
だがそれでも、ちょっぴり。こんな深夜にふと思い出して考えるくらいには、後悔がある。
チャバコ、というものがある。
お茶で有名な静岡県で生まれたお茶なのだが、煙草のような見た目をしている。煙草のシガレットのような、筒状のそれには粉末のお茶が入っており、自販機で売られている。
私はそれを、神奈川県で初めて見た。
髪を切る直前だった。本来だったら、宮城を出る前にみんなへのお土産を買うついでに、毛先をちょっとだけ切り揃えたいと思っていたのだが、彼氏が鍵を忘れてしまったために取りに戻り、そのため1000円カットの営業時間に間に合わず、旅先に着いてからのカットとなった。
その、飛び込んだ先のショッピングモール的な場所の、1000円カットのお店の隣に、チャバコの自販機が置いてあった。
燃え滓は「燃え滓」の名の通り、煙草に目がない。
煙草が好きだ。煙草をモチーフにしたものも好きだ。なんなら、今年の日記帳の表紙には、煙草と灰皿をモチーフに「はたらけ」と書いてあるステッカーを貼っている。
ぼんやりと。ほしいなあ、と思った。
デザインもすごく魅力的で、神奈川らしく、横浜の街が描かれたものや、船が描かれたものが置いてあった。
買わなかった。
買えばよかったな、と。ちょっとだけ思う。
買っていたらどうだっただろうか。
中身はお茶だ。旅の仲間のみんなと楽しめただろう。
チャバコを買ってきた、中身がお茶だよ、と。そう自慢げに言ったかもしれない。たしかTwitterで話題になったこともあったから、「ああ、あれか!」と言う人もいたかもしれない。
横浜モチーフのチャバコを買えば、出身が横浜であることに誇りを持っているらしい人もいるから、喜んでくれたかもしれない。
パッケージを楽しんで、写真とか撮って。その後、封を切って、飲みたい人たちでお湯を沸かしてコップを用意して、みんなで楽しめたかもしれない。
その様子を想像すると、ほっこりとして、同時に、空想である寂しさを覚える。帰って来てからも、中身を無くして空っぽになったチャバコのパッケージは、その様子を思い出させる宝物になっただろう。
別に、だからといって、こんな小さな後悔があったからといって、旅そのものすべてが否定されることはない。
料理ができる友人が作ってくれたご飯の味。一緒にした花火。海を見に行って、私が盛大にすっ転んだこと。
酒を飲んだり、みんながボードゲームをしている様子を眺めたこと。ニチアサが大好きな友人と一緒に、プリキュアを見たこと。
書き連ねればキリがないほどに、思い出に溢れている。
一切の嘘も無く、「楽しかった」と大きな声で言える旅だった。
さて、昔の人はこう言った。「腹八分目」と。
また、最近の科学では、仕事はきりが悪いところで終えたほうが良いらしい。そのほうが、あとにやるときにモチベがわくんだとかなんとか。
それらとはまあ、理論的な何かも言いたいことも何もかも違うのだろうが。
旅にも、ちょっとだけ「やり残し」がある方が良いのかもしれない。
全部やり尽くした、となったら、「次も」とはならないかもしれない。そりゃまあ、1年に1度くらいしかみんなで集まる機会もないだろうし、同じことをもう1回やっても絶対楽しいだろうなとは思うのだけど。
でも、ほんのちょっとだけ、「次はこうしたい」があったほうが良いのかもしれない。少なくとも、私には。
次、みんなで集まるとき、チャバコを見つけたら。あるいは、売っている場所が近くにあったら。
次こそは買っていきたいな。そんな風に思った。
それまで生きてねえとなあ。
そうも思った。