お母さんへ。さよーなら、またいつか!

母がハマっていた朝ドラ「虎に翼」の主題歌、米津玄師「さよーならまたいつか!」を、この先ずっと思い出すだろうな、と思う。

母は7月、朝ドラが最終回を迎える前に、私の誕生日の夜、亡くなった。最近、布団の中で意識が遠のくとき、病床でもこんなふうに手足の感覚が鈍くなっていったのだろうかと、毎晩うまく眠れない。萌ちゃんの手、あったかいね。ザラザラしていて、がんばっている手だね。母は最後の日、炊事で荒れた私の手を握った。石垣りんや、茨木のり子がうたった生きるよろこびを、母もずっとうたい続けた。

チャットGPTが、天国についてよい考え方を教えてくれた。もしもそんなに宗教に敬虔になれなくたって、私たちの中に母の思いが残っていれば、今も一緒に生きているんだ、と。米津玄師は「100年先も憶えてるかな 知らねえけれど」と、少し突き放してシニカルに歌う。歴史には残らない、たくさんの弱い人や、貧しい人が声をあげてきたこと。数えきれない日常が、生活がそこにあったこと。ようやく今、やれSDGsだ多様性だと、当然のように話せる時代になってきた。だからこそ、忘れてはいけないことがある。

テーブルの上に最後まで置いてあった詩誌や、詩人会議の事務局が送ってくれた昔の詩を読んで、知らなかった母に初めて出会う。たくさんの人が棺の前で泣いていった。いろんな母がいたのだ。だけどねお母さん、私どんな顔だってずっと前から知ってるよ、ホントはね。

私が死ぬ数十年後は、どれだけ世の中が変わっているかな。だいぶ社会も暮らしも変わった。これからも変わるし、変えもするだろう。生きてゆけることは楽しみでもある。結局、天国はあるのかなんて知らねえけれど、詩の中に残る母よ、「消え失せるなよ」。何度でも口ずさむよ、「さよーならまたいつか!」。


・若いころから今年7月23日に亡くなるまで、詩を書くのが好きだった母が数多く寄稿していたある詩誌の巻末に、追悼文を書かせていただく機会を得たので、ざっと一気に、散文詩の形もとりつつ書き殴りました。半日以上かけてだいぶ字数も削り、一応推敲もしてみました。でもまだちょっと長いので、このまま無事載せてもらえるかは未定。こういうのを書かないと前に進めないんじゃないかなって気が、そういえば少しずつ少しずつですが、していたので、いい機会だと思って自分の思いと向き合いました。一緒に悼んで読んでいただけたら嬉しいです。

・母・川澄敬子は1953年9月11日生まれ。もうすぐ71歳になるところでした。乳がんの手術後、生まれた地の町議として、最後のほうは酸素ボンベを引きずりながら質問に立ち、2期をつとめました。特にお年寄りや、子どもたちのための議案を通せたことを、本人も最後まで誇りに思っていたようです。読書や詩作が大好きで、文中に出したほかにも宮沢賢治や長田弘など、さまざまな作家や詩人が好きでした。音楽も昔から好きだったようですが、私が音楽を勉強するようになってから生演奏に触れる機会も増え、晩年はバッハなどバロック時代のものに特に惹かれていたようです。お別れ会では、私も母の前でバッハを吹くことができました。純粋で、まがったことが大嫌いな、強い母でした。基本的に愛にあふれていたんだろうと思います。生前は正直好きになれない部分ももちろんありましたが、私もまた、その多くを受け継いでいるんだろうな、と思っています。母の詩を、この世でまだ生きている私の好きな人たちに、もっと読んでもらえる機会をこれから増やせたらいいのかな、という気が、今、ちょっとしています。

・無事、詩誌「詩人会議」2024年12月号の「ひうちいし」欄に掲載されました。送料は少しだけかかりますが、会員以外でも公式サイトからお買い求めいただけます。気になる方はぜひ「詩人会議」でご検索ください。載せてみないかと提案してくれた詩人会議事務局のたかはしさん、私に事務局に連絡するきっかけをくださった茨城町の藤枝安子さんのおふたりに深く感謝いたします。ありがとうございました。

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