待てば役所の日和あり
今までずっと避けてきたが、そんな僕にもついに役所を訪れる日が来た。
自然災害、謎に包まれる病、失業や都市開発など、様々な事柄が日々生まれる中、それらの対処に追われる役所では人手不足も相まって、手続きにかなりの時間を要する。
多くの知人から「役所に行くと想像している三倍時間がかかる」などと聞かされていた為、できるだけ関わりのない人生を歩んでいた僕だったが、第一子の出生届を出すべくその地に足を踏み入れた。
総合受付のロビーは、形容するならば地獄のようだった。
あふれんばかりの来訪者たちは芋を洗うような状態で、ある人は壁にもたれかかり、ある人は膝を抱え、ある人はプレートにぶら下がって揺れていた。
僕はその場の空気におののきながら、案内板に準じて戸籍住民課へ歩みを進めた。
受付番号の札を取ると、僕はほんの僅かに残ったスペースに腰をかけて一息ついた。
「お前さん、役所は初めてか?」
不意に横に腰掛ける男にそう尋ねられ、いささか面食らいながらも頷いた。
男は大きく一息吐いて僕の肩をぽんと叩くと
「脅かすようで悪いがな。ここで番号を呼ばれるのを待つのは…つれえぞ」
今日は終日時間を作ってある、と返すと男は目を細めながら続ける。
「俺はもう、二十年ほどここで番号が呼ばれるのを待っている…」
あまりにもおかしなことを言うものだから、僕はいささか男と距離を取って言葉を返した。
「でも、先ほど僕と一緒に札を取った彼女はもう番号を呼ばれましたよ。ほら、あそこ」
男は戸籍住民課の窓口で役員と会話をする女性を見て、小さく笑った。
「役所の地獄はな、ここからなんだ。見ろ。もう話が終わっただろう。回されたんだよ。あのお嬢ちゃんは恐らく、これから三階の生活衛生課に行くだろう。そして『ここだと分からないから、二階の福祉総合課へ行ってください』と言われ、さらにその先でも…」
男は、この役所で一体何が起こっているのか説明してくれた。
恐ろしいほどの業務に追われた役員達が、少しでも己の仕事量を減らすべく、僅かでも自分の課に関係のない事柄に対しては、別の課に丸投げをする行為が横行しているそうだ。
別の階に行けと言われ、苦労して移動した先でも『ここではない』と、更に別の課に回される。
どうにかこういかたどり着いたとしても、待てど暮せど番号が呼ばれない。
「もう何人も挫折する奴らを見てきた。『もういいよ』『高い税金を払うよ』って。でもな、おれたちは身分を証明するものを作っても良いんだ。そしてそれで控除を受ける資格があるんだ!」
僕はあまりの出来事にぼう然として、現実を受け止められない。
「お前さんは出生届を出しに来たのか。娘が生まれた? それはめでたい。だが、次に会えるのは娘が小学校に上がる頃だろう」
僕はこのような信じがたく、許しがたい出来事が起こっていたなど露程も知らなかった。
最近とんと会わなくなった友人達も、ずっと役所で番号を呼ばれるのを待っていたのだろうか…。
窓口で新たな番号が呼ばれた。
途端、男の顔に色が差し、何度も、何度も手の中に握られた番号と同じかどうか確かめて、涙を浮かべた。
僕は、男と握手を交わした。
そして、手続きが終わったら、この場から離れたら何がしたいか尋ねた。
男はもう、ずっと心に決めたいたのだろう。芯の通った声ではっきりと言った。
「これが終わったら、二階の高齢福祉課に行って手続きがしたい」