On Air from Fukuoka #1(後編)
アラタ・クールハンド/Arata Coolhand
皆様にも好評をいただいております、アラタ・クールハンド氏の後編になります。より濃い内容になってますので、どうぞお楽しみください!
*********************************************
module(以下 m ):東京のシーンには、マナブさん(*1)を筆頭にレジェンドな諸先輩方が大勢いらっしゃいますが、アラタさんの独断で結構なので、シーンのフェイスといえばどなただったのでしょうか?その方との面白いエピソードなどもあればお願いします。
arata coolhand(以下 a ):そりゃあオレだよ!といいたいところですが(笑)当時の話に限れば、フェイスは俺だあいつだというようなやり取りはなかったように思いますね。少なくとも自分の周囲ではそういうのはなかったなあ。というのも、マウントの取り合いみたいなことはちょっと恥ずかしいこと、どうでもいいことというのが場の空気でもあったような。そもそも自分も含め、そういうのがイヤで新宿の地下に集まってきた、ということでもあったわけだろうし(笑)それに映画『Quadrophenia』の中でフェイスとして登場するSTINGは、本国ではむしろカッコワルイ象徴みたいに思われていたようで、出てくると会場から大ブーイングが起こっていたなんて話も伝わって来たから(笑)われわれも同じような受け止め方をしていたフシもあり。そんなことからもフェイスが誰だというようなことは口にしなかったんじゃなかったかなあ。
黒田マナブくんは当時から好人物でしたね。尖ったモッズの多い中、ひとりソフトでジェントルな印象。当時ザ・ムーブメンツというバンドにいたんだけど「学祭よかったら観に来てよ」とダメ元で誘ったら遠いのに本当に来てくれてね。モッズカルチャーの解釈が殆どない音楽サークルでのライブに、スマートなお手本的モッドが来てくれたということに援軍得たりの気持ちで、もうハナ高々(笑)。あれはスゴく嬉しかったなぁ。分け隔てなく面倒見がよく、JAMで最初にアテンドしてくれたのも彼。40年もの間には清濁合わせ呑まねばならない場面も多々あっただろうけど、彼が永年オーガナイザーの席についているのは必然のように思います。
※新宿JAMの裏で。隣のJetのオーナーは、サイケ・ガレージを経てラーガ・ロックへ傾倒し、後にインド、ネパールへ渡る佐藤ツトム氏
m:東京のシーンはマナブさんあっての40年という道のりなんでしょうね!シーンの中心(マーチ・オブ・ザ・モッズ)は魅力的な方々の社交場でもあると同時に表現の場でもある。そんな小さくても完璧な場所を作りたいというマナブさんの思いからの現在ですからね。
a:JAMに行くことになったもうひとつの目的は、あるバンドのヴォーカリストに逢うことだったんです。当時クラッシュのようなバンドを組んで都心のライブハウスにも出ていたサークルの先輩から「よく対バン(*2)になるザ・コーツというバンドのヴォーカルがすごくカッコイイから一度会ってこいよ」とミッションを受け、モッズシーンに出入りしていることを聞きつけてJAMに向ったという経緯です。今にして思えば「観てこい」ではなく「会ってこい」だったのがとても示唆的だったなと。
2回目くらいのマーチだったかな、エントランスにヒョロッとした彫りの深い、ポール・シムノンのようなルックスの金髪男が立っていてスゴく目立っててね。当時まだライブハウスの客席にはパイプ椅子が並べられていたんだけど、演奏が始まるとひとりでそいつをぱたぱたと片付けだしスペースをつくって踊り始めた。それがまた独特のダンスなんだけどスゴくカッコイイ。だれかに声をかけられて振り返った笑顔がスゴく好くて、聞くと「ヒロト」と呼ばれている。それが後年ザ・ブルーハーツを結成する甲本ヒロトとの最初の出会いだったんです。その後もちょくちょく逢うようになって、先輩からいわれて会いに来た話なんかをして意気投合し、現在も友人関係が続いています。
そう、先ほどの話に戻るようだけど、影響を受けた人物の中にはヒロト&マーシーがいます。ふたりからは多大な影響を受けましたよ。音楽だけではなくものごとの考え方とかね。その後のブルーハーツ時代には楽屋に入れてもらったり、ツアー先のホテルに個別訪問してレコードを聴いたり。彼らとダイレクトに話す機会を持てたのは本当にラッキーなことでしたね。説教めいたことなんかは一度もいわれたことはないけれど、会話を通していろいろ教わりましたよ。もしあの頃ふたりと会えていなかったら人生が相当違うものになっていただろうなあと。少なくとも今の仕事に就く自分はいなかったでしょう。彼らはもちろん「会ってこい」といってくれた先輩にもすごく感謝しています(笑)
※『マーチ・オブ・ザ・モッズ』でのライブアクト。The Movementsは エルヴィス・コステロ、ニック・ロウ、グラハム・パーカー、スクイーズといったSTIFF系パブロックバンドのカバーが主演目だった
m:ヒロトさん、マーシーさん、誰もが認めるシーンのレジェンドですね!他にはどなたかいらっしゃいますか?
a:それから、80年代後半にスカパラに参加するマーク林。僕はいつも苗字の方で呼んでいるんだけども(笑)彼もJAMに通い始めてすぐ知り合ったモッズのひとりです。初見はドットのBDシャツとマッギンサングラスを合わせた出立ちで、バタ臭い顔付きから本国のモッズが来ているのかと見紛うほど。トっぽさがあって当時のシーンでは1〜2位を争うルックスだったと思いますね。ブライトン・ブルービーツに加入したときはブロックヘッズに入ったウィルコ・ジョンソンを連想したなあ。並木橋に『レディ・ステディ・ゴー』ができた時は一緒に “視察” に行ったっけ(笑)
そして藤井悟。のちに藤原ヒロシらのクラブキングに加わる彼は、僕らバンド系モッズとは畑の違うクラブ系のモッズでした。ツバキハウスのギャングステージにいくといつもDJブースにいて、その佇まいがわれわれバンド由来とは明らかに違っていて、なんかアカ抜けしている。ファッションセンスも常に一歩先をいっていて、みんながスタプレやらポークパイハットやらを血眼になって探している時に、彼はシルエットの太いズートパンツにボウラーハットなんかをコーディネートしていて。それがとってもhipでね。ファッションとは違和感でありその場に溶け込まないことである、という至言を地でいっていたカンジ。音楽の趣味も図抜けてるし、一番洒脱なモッドだったんじゃないかな。そう、彼こそが先述した“上級者 ”のお手本です。
彼らのほかにもイカしたモッドが大勢いてちょっとした紳士録が編めるほど。こうして回想するにつけ、つくづく多士済々なメンツがいたシーンだったなあと感心します。
※横浜の瑞穂埠頭/米軍ノースドックの桟橋にあるバー〈POLASTAR〉で真夏に行われたダンスパーティの時のスナップ。右から3番目がアラタさん。2番目がマーク氏
m:今のお話を聞いただけで、モッズシーンだけでなく、80年代という時代背景がとてもエネルギッシュな時代だったという事がヒシヒシと伝わってきます。その40年経った今、80s, 90s, 00s ... 振り返ってどういう時代だったと言えるのでしょうか?
a:これまた答えが長くなりそうな質問だなあ(笑)この40年間をひと口で語ることは難しいけれど、大まかに私感を。
80年代特に中ごろあたりまでの日本は、音楽にしろ映画にしろファッションにしろまだ完全にアメリカを向いていました。「欧米」とひと括りにしていてもそれらの概ねはアメリカのことで、世の中には米国的なモノやスタイルがあらゆるジャンルにおいて溢れていた。当時ポール・ウェラーやジョン・ライドンなど70Sパンクの雄が来日するごとに「日本人はどうしてみんなアメリカ人みたいな格好をするんだ?」「日本人としてのアイデンティティはないのか?」とよくインタビュー記事で嘆いていたのを読んだけど、当時の日本はまったくその通り。アイデンティティなんて言葉自体耳にすることもなく、社会が明確なフォーマットを持たないままただただ消費文化を謳歌していたような、まだ内容の薄いオブスキュアな時代だった記憶です。
日本人の “アメリカ礼賛志向” は、戦後の占領下時代に彼の国がとった国策の “擦り込み作戦” の成果なので、無自覚で不節操なのはある意味仕方のないことではあるんだけど、それから40年経った80年代になってもあっちから来るモノはすべてハイセンスなカッコイイものというようなバイアスを持って見ていた、という状況はいくらなんでも思考停止だなと。そんな時代へのアンチテーゼとして自分は青年のような1960年代を懐古し、デコレートしたスクーターに跨がっていたんだと思うんです。
ようやく日本人が自我に目覚めた、というよりアメリカンカルチャーに興味を失っていったのは90年代の半ばも過ぎてからだったと思いますね。折しも時代はバブルがはじけ「構造不況」という呼び名の不景気が蔓延しだした頃。一種のショックドクトリンで、激しい落差の経済の凋落を経験してみんな眼が覚めたのかもしれません。ポップミュージックや映画のようなサブカルチャーとしてのアメリカはまだ一定量入って来ていたけれど、80年代以前ほどの懸河はなくなっていた。そういう意味では米国カルチャーからの脱却は、前時代的な経済システムの崩壊と強い結びつきがあったのではないかとも思えます。
m:確かに日本の80年代初頭は過去のものをひきずって、世の中も音楽シーンももがいていた様な感じはありましたね。そこからアメリカナイズされたものからの脱却やヨーロッパのものに目を向けたりしながら、日本独自の音楽シーンなども生まれて来たように感じます。
アラタさんの中で、大きく変化したきっかけや出来事などはどの様な事だったのでしょうか?
a:具体的にいえば95年がひとつのフェイズだったんじゃないかと。個人的にもちょうど会社員を辞めてフリーランスでの一本立ちを目指しだした年なのでシンクロするんですが、この「95年転換期説」は、阪神淡路大震災や地下鉄サリン事件などもあったことから書籍にもなっているほどの通説。MacやPCが普及し始めたり、携帯電話の一般販売が本格化したりした時期とも重なります。
その後の00年代〜10年代はまだ記憶に新しいでしょう。自分史的には90年代後半からの00年代後半の10年間が、もっとも成長しアグレッシヴに過ごした時代と感じています。念願だった作画業一本で生活ができるようになり、バンド活動のリバイバルもあったり。後年処女作の題材ともなる都下のフラットハウスに住み始めたのもこの時期。いろいろな出会いや発見があった素晴らしい季節でした。
※ET3から乗り換えたVespa Sprintと
m:2013年から東京と福岡との2拠点生活=デュアルライフを始められているそうですが、何か大きな理由、あるいはキッカケなどがあったのでしょうか?
a:やはり11年の原発事故が大きな引き金です。この職に就いたときから海外も含めた他拠点生活を目標にしていたんだけど、震災を機に「すぐに動ける」ライフスタイルへの切り替えを真剣に目指しました。準備には2年近くがかかってしまいましたが、なんとか実現に漕ぎ付けた体です。
それとは関係なく、一度九州には住んでみたいと思っていたんですよね。最初は阿蘇との2拠点を考えていましたが、行ってみたらすでに移住者で満杯状態だったため、これは一旦九州のどこかに住んでじっくり探すほかはないなと考えたのがここ福岡。事実上九州の首都だし、米軍基地があった博多ならいいフラットハウスもありそうだなと思い決めたんです。まあ、それから身辺の整理なども大急ぎでして心身共に疲労困憊だったけれど、今となってはあのとき一念発起し行動に移しておいて本当によかったと痛感しています。2拠点生活は単なるトレンディな生き方などではなく、災害やパンデミックに対応できるとても理に適った実用的ライフスタイルなんです。
m:東京と福岡の両方に住んでみての雑感などがありましたらお聞かせください。
a:福岡はいい街ですね。関東から来たらもう天国ですよ。食べ物が安くておいしいのはいわずもがな、空港も都心部に隣接しているし、なにより街と自然との距離が近いところが素晴らしい。スクーターでどこを走っていても絶景の中を抜けていくカンジです。交通量も少ないから走りやすいし。そして個人商店が多いところが決定的な魅力でしょう。これがナショナルチェーンばかりだと、いくらビルがいっぱい建っていても賑やかでもダメなんですよ。景気が悪くなれば彼らはすぐいなくなりますからね。街のことなんて考えちゃいない。そもそもビルディングで構成されてしまうというのがもう「死に体」なんですけどね街として。僕の好きな東京都下も駅周辺はみんなタワーマンションの景色になってしまってます。「再開発」やら「活性化」なんていうお為ごかしでビルが林立、すっかり街がクローン化している。九州はああなっちゃダメですよ。
福岡を筆頭に九州人は大らかで曲がったことが嫌いという正直な人が多い印象です。もちろん例外もあるでしょうが、自分の周囲にはそういう人ばかり。なので、街はおのずと質のイイ個人商店が多くなったということじゃないかと思うんです。関東でも関西でもない独特なカルチャーと気質があり、住んでいて余計な力が入らない居心地のよい土地です。
※ライフワークと化しているトークイベント〈FLAT HOUSE meeting〉では、平屋のディテイルから借り方暮らし方にはじまり、お金を使わない再生方法や2拠点生活、自費出版やゲストハウスのはじめ方の手ほどきまで、全8項目を回替わりで話す。呼ばれれば全国どこへでも赴く
m:アラタさんのもうひとつの顔でもあります『FLAT HOUSE』について知りたい読者の方も多いと思います。こちらの活動はどのタイミングで始められたのでしょうか?
a:FLAT HOUSEというのは戦後昭和に建てられた平屋のことを指す造語です。フリーランスになった90年代の後半、マンションに籠って仕事をして心身の調子を崩してしまって。それを機に転居した木造平屋が治してくれたというストーリーなんですが、これについては拙著『FLAT HOUSE LIFE1+2』をご一読いただけたらと。そんな恩人である平屋に対する愛好心が生まれ、見に行ったり写真を撮り溜めたりしているうちに何冊もの本になってしまったという経緯です。
福岡にも拠点を持ったのは、先述したようにいいフラットハウスとの出会いがあったからという側面があります。人生の節目節目にはなぜか平屋があるんですよ僕の場合(笑)
m:何度かご自宅にお邪魔させて頂きましたが、ベースとなるフラットハウスは勿論の事、家具や照明、小物類、デザイン性だけでなく機能面も優れたものが隅々まで散りばめられて、アラタさんのモッズはインテリアまでもかぁ?!と圧倒されるばかりです^_^
どんな書籍を読んでも、モッズの日常的生活は発表されておりませんが、インテリア、空間、日常(プライベート)というのがモッズとリンクするとこなどはありますか?
a:あると思いますよ。特にインテリアや空間は。住んでいるフラットハウスも60年代製ですしね(笑)。ただ、そこに英国というこだわりはなく、50〜60年代のいわゆるミッドセンチュリーという時代での括りです。国籍はアメリカやフランス、スカンジナビア、オランダなどいろいろです。ミッドセンチュリーは音楽や映画だけでなく、ことプロダクトデザインにおいても洗練されたデザインのモノが世界で同時多発的に生み出された非常に稀有な時期。スクーターもそのひとつです。やはりあの時期につくられたデザインって追い抜けないんですよね未だに。カルチャー然りですが、あの時代がある意味この文明のピークだったんじゃないかと思っています。
m:う〜ん。質問したのは僕なのですが、まだ僕には理解不能なことばかりです。勉強になります!!!
最後にお決まりの質問で締めさせて頂きます。
あなたにとってのモッズとは?
a:少年期に出会い今もって心肝にあるクライテリア。消失することのないバニシングポイント。10代の終わりから20代の始めにモッズカルチャーにどっぷりと身を浸けたわけだけど、本来なにかに属することを潔しとしない自分がああいうシーンに身を置いていたのはとても稀有なことで、後にも先にもあのときだけです。今は違うジャンルの中にミッションを見つけて腐心しているけれど、あの頃の延長線上にいる。「大樹に寄らずインディペンデント=独立せよ」はあの時期に培ったマニフェスト。それが未だ体内にあるから、今日このような仕事をしている自分がいると思ってます。
m:長い時間お付き合い頂きありがとうございました。
a:こちらこそ!
[脚注]
(*1)
DJ / オーガナイザー。80年代初頭の東京モッズシーン黎明期から参加し、シーンと共に生きてきたフェイスでありスーパーバイザー
(*2)
ライブの際に一緒に出演するバンドのこと。80年代当時のブッキングはライブハウス側によってアレンジされることが多く、面識のない者同士で組まされることもしばしばだったが、そこから交流が始まることも少なくなかった
※自宅をリノベート中のアラタさん。「木造平屋は自分で自由にカスタマイズできるところがまた魅力」という
◆アラタ・クールハンド Arata Coolhand
イラストレーター/文筆家/古家再生 東京都出身
広告や挿絵、ロゴタイプの制作からパッケージデザイン、アパレルの企画までの「描く」と、平屋=フラット・ハウスにフォーカスした書籍を執筆する「書く」を生業とする。主な著書には『FLAT HOUSE LIFE1+2』 『FLAT HOUSE LIFE in KYUSHU』『FLAT HOUSE style』シリーズ、『HOME SHOP style』などがある。現在は東京と福岡の2拠点の平屋で交互に生活。古家の再生事業『FLAT HOUSE planning』も主宰し自らも工具を握る。愛車はLambretta SX150。
【著書】
・『FLAT HOUSE LIFE1+2』(TWO VIRGINS)
・『FLAT HOUSE LIFE in KYUSHU』(辰巳出版)
・『FLAT HOUSE style』(自費出版/テンプリント)
・『HOME SHOP style』(竹書房)
・『木の家に住みたくなったら』(エクスナレッジ)
・『再評価通信 REVIVAL journal』(TWO VIRGINS)
【CD】
・『FLAT HOUSE music』(ユニバーサルミュージック)
・オフィシャルブログ『LET HIM RUN WILD』
http://arata-coolhand.cocolog-nifty.com/coolhand/
■ インタビュアー:fame the mod(コウジ)/module