ギラギラ
高校生の頃、僕はギラギラしていた。
すごい人になるんだ。僕はそう信じて疑わなかった。勝負事では一歩も引くつもりはなかった。僕は勝利を、成功を求めた。僕の目はギラギラと輝いていた。
僕は調子を崩した。
うつ病になり、入院までした。
僕は元気になったら、またギラギラできるのだろうか。
ギラギラ、すべきなのだろうか。
しなくていいよ。と言うのは簡単だ。僕は大人だ。僕が多少頑張らなくても、僕を変わらず愛してくれる人がいることは知っている。別に僕は成功しなくていい。負けてもいい。僕は知っている。
それでも僕が勝利に、成功に縋ることを許してはくれないだろうか。
しなくていいよ。と言う人は自分の発言の意味をちゃんと考えてほしい。成功や勝利に価値を置いている僕に死ねと言っているのと同じだ。そんな軽々しく言わないでほしい。
僕は大人だ。自分のリソースをちゃんと配分しなくてはいけない。
そう思うと、「諦める」という選択肢が一番上に出てくる。僕は諦めるのか。何を?何を諦めるのだろう。わからない。成功を、勝利を、諦めるのか。それは負けなのだろうか。
ああ、わからない。
この二元論で考えるのは、もうおしまいなのかもしれない。
そういう時期なのかもしれない。成功か失敗か。勝利か敗北か。この二元論で考える時期はもう終えた方がいいのかもしれない。
でも!と僕は思う。僕はまだ22だ。周りを見渡してもまだこの二元論で戦っている人は多い。この二元論から逃げないことが、僕くらいの歳の人間に求められていることじゃないのか。
でも、そうじゃないのかもしれない。僕は周りと足並みを揃える必要なんかなくて、一足先にこの二元論を卒業するべきなのかもしれない。勝負から逃げて楽な方へ向かった同年代の人たちを下に見て生きてきた気がするから、この選択肢を選ぶのも難しい。
ああ、わからない。
この二元論から卒業した先で、僕は何を頼りに生きていけばいいのだろう。僕は何を目指すのだろう。目先の幸せを目指すだけの人にはなりたくない。遠くのものを眺めていたい。そうじゃないと、真っ直ぐ進めないから。
遠くにある幸せを目指すのは難しい。成功か失敗かなんて二元論で考えることを放棄してきた僕には、曖昧な幸せを自分で描きながら生きていくことができない。そして僕には、そういう自分と目先の幸せを追う自分の区別がつかない。
ああ、わからない。
ここまで考えて、遠くにあるものなんて、幻想でしかないのかもしれないと思った。
成功も、勝利も、幻想に過ぎない。自分の選択肢を狭めるだけの枷だ。
僕は遠くを見ているようで、目先の幸せに焦点を合わせないようにしていただけなのかもしれない。
僕は、幸せになっていいんだよ。
いいんだ。
いいのか、そっかあ。
じゃあ、元気になったらまたもう少しだけ頑張らせて。
もう少しだけギラギラしていたいかも。
それが終わったら幸せになるからさ。
だめかな?
許してくれない?
お願い。
もう少しだけ苦しませて。
ギラギラとあの輝きの中で安心したいの。
お願い。
んー、そうだな。ちょっと元気になったらまた僕と相談しよう。
僕はまだ22だ。もう22だ。
現実から逃げるな。
それでは。