強さと鈍さ
鈍い人は強い。強い人が鈍いとは限らないけど。
どうやら僕は世間的に見れば相当繊細な心の持ち主らしい。いろんなことを感じて、考えてしまう僕は決して鈍くはない。鈍くならないように気をつけて生きてきた。だって優しくなりたかったから。
繊細な人は時に内省的すぎて、時に感受性が強すぎて、自分の思うように動けなくなる。そしてそのことすらも自分で気づいていて、それでいて動けない。
それを弱さと呼ぶのかもしれない。
そうだとすれば、僕は弱い。
大人数の場では一定時間おきに一人にならないと苦しくなってしまう。他の人がいる場所で寝る時に本当に眠れるか不安になってしまう。
弱すぎる。
僕が強くなろうと思った時、僕は周りの強そうな人から学ぼうとした。中学生の時だろうか。僕は気づいた。強そうな人は、鈍いだけだった。
僕が感じているものを感じていなくて、どれだけ僕が言葉を尽くそうとも伝わらなさそうな人が、強そうな人だった。
だから僕は、強さは鈍さだと思った。
だけど、最近どうやらそうではないことに気づいた。
僕の弱さ、繊細さが活きる場面もちゃんとあった。
実は僕は、こんなにnoteを書いていながらも、書くことがなくならない理由が繊細さによるものであることに最近になってやっと気づいたのである。
僕が繊細だからこんなに書くことがあるらしい。どうやら。
繊細であっても弱くなく、むしろ強く在れる場所も存在する。繊細な僕はそういう場を見つけて、しかもそこに籠ることなく、時には弱さとも向きあう必要がある。
僕が繊細で在れる場所、そういう拠点があるから、鈍さに揉まれる場所にも出かけていける。
このnoteは僕の拠点だ。心の在処だ。こういう場所はいくつかある。実家や仲のいい友達との会話だ。僕はここに根を張り、そして強く枝葉を伸ばしていく。
繊細で在れ、強く在れ。鈍さに揉まれて鈍くなるな。
苦しみながら生きたいのであれば、繊細さは必要だ。僕は、苦しみながら生きたい。そうでないと、優しくなれない気がするから。
僕は、そうやって生きていく。
決意表明でしたっ!
それでは。