そうだな、文系高校生にもわかるように物理の話をしよう。
今日は理系大学生っぽい話をしよう。そういう気分だからだ。
そうだな、文系高校生にもわかるように物理の話をしよう。
物理学が生まれてから現在に至るまで、何があったのか。それぞれの小難しそうな理論は何を言っているのか、かいつまんで説明してみようと思う。今日は特に何も見ずに僕の記憶だけで書くから、間違っていたら指摘してほしい。
まず、なんと言ってもニュートン力学の話から始めよう。
ニュートン力学というのは名前の通り、ニュートンの考え方で世界の仕組みを考える学問だ。
ニュートン力学で基本となるのは3つ。「質量」と「加速度」と「力」だ。
質量というのは「重さ」に似ている。同じ大きさなら鉄は質量が大きくて羽毛は小さい。ただし、重さと違うのはどこに置いてあるかは関係ないってことだ。例えば僕は月に行けば重さは軽くなるけど、質量は変わらない。質量ってのはその物体に固有の値で、重さってのはそれに「地球の引力の強さ」とか「月の引力の強さ」を掛け算したものになる。
加速度を知るためには、少し微分の話をしなきゃいけない。微分っていうのは、これまたニュートンさん(とライプニッツさん)が考えたもので、要するにすごく局所的な平均だ。この記事では時間で微分する話しかしないから、「すっごく短い時間の平均」と思ってくれていい。ほぼ割り算だ。詳しい話は興味を持ってから勉強すればいい。
ある物体が少し動いたとしよう。その「動いた距離」を時間で微分すると「速度」になる。「距離÷時間=速さ」ってやつだ。「位置がどんなスピードで変化しているか」と言っていい。
その速度をさらに時間で微分すると加速度になる。要するに「速度がどんなスピードで変化しているか」、つまり加速の度合いを表している。それが、「加速度」。
そして最後に「力」。ニュートンの成し遂げた大きな仕事は、この力を定義したところにあるかもしれない。ニュートンは、力を「質量×加速度」で定義した。ある「質量」を持った物体に、ある「力」を加えた時の「加速度」。これで世界を記述しようとしたのだ。
これがどんなにすごいことかわかる?
「この力で押すとこの質量の物体がこの加速度で動くな」ってわかると、力の大きさを求めることができる。するとその力で他の物体がどんな加速度で動くかを知るのに、もう物体を押す必要はなくなる。力を質量で割ってあげればいい。
つまり、だ。力の大きさをなんとかして知って仕舞えば、もう計算だけでこの世界の動き方がわかる。
そしてニュートンはそして「とある力の計算方法」も考えた。
その力とは、万有引力である。地球がリンゴを引っ張る力。月が地球を周りながらも、遠心力でどっか遠くへ飛んで行かない力。それを計算で求める方法を見つけたのだ。17世紀生まれだぞ?江戸時代だぞ?天才すぎだろ。
ちなみに、ニュートンより早く、16世紀生まれのケプラーという人がいた。彼は万有引力にはたどり着かなかったものの、惑星が太陽の周りを回っていることは知っていた。彼は地球から見える惑星の位置のデータを分析することによって、それぞれの惑星の軌道面が一点で交わっていること、そしてその位置が太陽の位置と一致することを見つけたのだ。彼は他にもいくつかの大発見をしたけど、ケプラーの時代にはキリスト教的、ギリシア哲学的な考え方が根強かった。彼は著書の中で「精霊の力が〜」のようなことを述べたり、現代人から見ると科学的とは言えないことも述べている。個人的にケプラーは大好きなので気になった人は調べてみてほしい。
そして、それから300年以上、ニュートン力学は僕たちの生活を支えている。
しかし、そんなニュートン力学にもおかしいところが見つかってきた。
時代は20世紀。最近(過去100年くらい)の物理学の話をしよう。
当時、物理学の界隈では「光は粒子なのか波なのか」という議論が長い間行われていた。それこそニュートンの時代からなされていた。ちなみにニュートンは粒子派。
しかし、19世紀に発表されたマクスウェルの方程式がその情勢を揺るがした。
「光とは、電磁波である!」
電磁波とは、要するに電場と磁場の波である。ここでいう「場」っていうのは説明が難しくて、間違ってたらごめんなさいだけど、「影響された空間」という意味だ。
「場」について少しだけ説明してみよう。
磁石の周りに砂鉄を置いたことがあるだろうか。僕はない。
こういうやつだ。
この時、磁石から少し離れた場所の砂鉄も、なぜか整列する。磁石の力が空間を伝わって、砂鉄を整列させたのだろうか。
「場」という考え方は少し違う説明をする。
磁石が空間に影響を与え、ある意味で歪め、その歪められた空間に存在する砂鉄がその歪みに沿って整列したのだ。そうやって磁石によって歪められた空間を磁場、電気の力によって歪められた空間を電場という。
マクスウェルの方程式は、この電場と磁場が互いに影響し合うこと、そしてそれによって波が生まれること、その波こそが電磁波、光であるということを主張した。
ちなみにマクスウェルの方程式は4つの方程式からできているけど、マクスウェルがやったことはそのうち一つに修正を加えただけである。それ以外は他の人が元から作っていたのだ。
こんなちゃんとした理論を言われてはしょうがない。やっぱり光は波なのか。
しかし光が波だとすると説明のつかない現象もあった。その一つが光電効果。詳しくは説明しないけど、アインシュタインはこの原理を説明したことでノーベル賞を取っている。
そう!
何を隠そう20世紀はアインシュタインの世紀である!!
アインシュタインはニュートン力学とマクスウェルの方程式の矛盾に気づいた。
ニュートン力学はこんな説明をする。
「一定方向に一定速度で動いている時、物理法則は変化しない」
だけど、マクスウェルの方程式はこれに反していた。動いている人から見ると、方程式の形が変わってしまう(物理法則が変化する)のだ。
普通、「マクスウェルの方程式間違ってやんの」でおしまいだ。でも、アインシュタインはあろうことか、「ニュートン力学の方が間違っている」という仮定を立てたのだ。そして、そこに「光速が一定である」という仮定を加えて色々ごちゃると、相対性理論が出来上がった。
相対性理論は、ニュートン力学の枠から出るものだ。ニュートン力学ではどんなに背伸びをしても説明できない。アインシュタインはまず1905年に特殊相対性理論という、特殊な場合に限った相対性理論を発表した。そして1916年、それを一般化した一般相対性理論を発表し、相対性理論を完成させた。
相対性理論については、また今度わかりやすく説明した記事を書こうかな。大好きだからさ。
さて、じゃあ相対性理論とニュートン力学は、何が違うのか。結論だけ書こう。
ニュートン力学は、「空間」という箱があって、そこには一定のリズムを刻む「時間」があって、その中で動く物体に注目するという学問だった。
相対性理論は違う。
「空間」も「時間」も一定ではない。互いに影響しあい、変化し、歪み、そうして一つの世界を作っている。
世界の枠組みを変えちゃったってわけ。すごくない??
あと、1920年代には量子力学も発達した。第一次世界大戦と第二次世界大戦のちょうど間、復興を目指していたドイツなど、ヨーロッパで量子力学は発展した。
量子力学も、ここで詳しいことは説明せずにニュートン力学と何が違うのかだけ書こう。また詳しいことは記事にするかもしれない。
ニュートン力学は確定的で、量子力学は確率的だ。
ニュートン力学では、ある時刻での状態を全て知ることができればそれ以降の世界は全て計算できるとされた。これをラプラスの悪魔という。
しかし、量子力学ではそうは考えない。
いや、ある意味ではそう考えているとも言えるか。
量子力学において、ある時刻での状態を全て知ることができれば、それ以降の世界の確率は計算できる。「この粒子がここにある確率」はわかる。本当にそこにあるかは知らない。
ここまで読んで、「ニュートン力学から量子力学になったらグレードダウンしてない?」「なんでわからなくなっちゃったの?」と思う人がいるかもしれない。
それに対する答えはとってもシンプルだ。
量子力学で「どこにあるのかわからない」と言っている範囲は、めちゃくちゃ小さい。
日常生活のスケールではニュートン力学で困ることはまずない。ニュートンの時代なんかは特にそうだっただろう。しかし時代が進み、技術が発展し、小さいものを考えられるようになった時、この「めちゃくちゃ小さな範囲」が問題になったのだ。この範囲は普通、機械が測定の際に出してしまう誤差より遥かに小さいから、全く問題ならない。誤差の方が大問題だ。だから、この小さな小さな「わからない範囲」が問題になったということは、科学が進歩したということに他ならないのだ!だからグレードダウンではないのです。絶対に。
20世紀の物理学はこの相対性理論と量子力学の二つが大きな柱となって発展してきた。
さらに研究は進み、ブラックホール、素粒子など、問題はどんどん複雑に、難解になっている。
しかし、ニュートン力学が否定されたわけではないことは強調しておきたい。ニュートン力学はその仮定の中では矛盾のない完成された理論であり、実用性もバッチリだ。その仮定が当てはまらないほど極端な世界を考えるときにうまくいかないだけなのだ。その極端な世界を説明するのが相対性理論と量子力学と言っていいだろう。
以上、科学史のお勉強でした。
わかりやすく書いたつもり。
16世紀のガリレオに始まった科学が、ケプラーを経てニュートンで花開き、(そこからの発展は地味だし数学的すぎるから置いといて)20世紀に相対性理論と量子力学という形で革命を遂げた。
僕が忘れてはいけないと思うのは、科学は人間の文化の一つだということだ。科学の出身はキリスト教であり、ギリシア哲学であり、音楽や幾何学とも密接に関係していた。そういう、この世界との関わり方を模索する人間の生臭い営みなのだ。
どれだけ時代が発展してもそれは変わらない。個人的には変わらないでほしい。これまで生きてきた数多の人間が模索してきた世界との関わり方の歴史だ。科学を学ぶことはこの世界の成り立ちを学ぶことであり、自分と世界の関わり方を学ぶことである。
まあ数学とかなんかごちゃごちゃ難しいし、学校で習う科学ってほとんどがパズルみたいな頭の使い方だし、気に食わないのもわかるけどさ。僕も数学はそんなに好きじゃない。
まあとにかく、数式をごちゃごちゃするのが苦手だからって科学を嫌いにならないで欲しいってのと、数式をごちゃごちゃしないテキトーこいてる科学には騙されちゃダメだよってことです。
それでは。
↓この記事の続き
今日の記事が面白いと思った人に読んでみて欲しい本二選
物理学とはなんだろうか(上・下) 著 朝永振一郎
部分と全体 著 ハイゼンベルグ 訳 山崎和夫
どっちもめっちゃ面白いよ。
「物理学とはなんだろうか」はノーベル物理学賞を受賞した朝永さんがガリレオ、ケプラー、ニュートンの時代から産業革命時代の熱力学を経て現代に至るまでの物理学の発展を解説した著書。後半になるに従って少しずつ数式が増えるから数式アレルギーなら辛いかも。だけどこれだけで物理学の全体像が見えてくる。
「部分と全体」はノーベル物理学賞を受賞したドイツの物理学者、ハイゼンベルグの自伝。ハイゼンベルグは量子力学研究の第一人者である。幼少期の大戦、若き天才としての栄光、二度目の大戦へ向かうドイツでの苦悩、ナチスの原子爆弾開発、そして大戦後の復興や後進育成への思い。全てを偉人本人の目線で読むことができる。こんな名著はない!個人的に一番と言ってもいい大好きな本。
ぜひ読んでみてね。