すごい人がいいことを言ってるのが嫌い。

僕は普段テレビを見ない。

理由は簡単で一人暮らしの家にテレビを置いていないからだ。スマホとパソコンを見て生活している。

だからこの前帰省した時、久しぶりにテレビを見た。


林修の番組に三谷幸喜が出ているのを見た。僕は二人とも好きだ。その番組の最後には三谷幸喜の仕事についての意見をまとめて「他人から必要とされていると感じること以上の幸せはない」という言葉が流れた。(三谷幸喜自身はそこまで言ってない)

僕はなんだかそれがすごく嫌だった。

僕は、すごい人がいいことを言っているのが嫌いだ。


なんで嫌だと思ったのかを考えたから聞いてほしい。

僕はその言葉を聞いてまず、地元で介護職をしている同級生のことを考えた。確かにあいつは他人から必要とされているだろうけど、介護職は大変な仕事の割に給料がいいわけでもない。そして、みんながみんなやりたくて介護職をしているわけじゃないことは知っている。

他人から必要とされる仕事が目の前にあっても、自分のやりたいことが別にあるのなら自分がやりたいことの方を選ぶ人もいるし、いていいよなと思った。

「他人に必要とされていると感じること以上の幸せはない」というのは、言い過ぎだと感じた。メディアの悪いところではある。


それから、三谷幸喜は自分の意見を言っているだけなのに、「これが正解だ」と言われているように感じてしまっている自分に気づいた。僕は「これが正解」と言われると反例を探す癖がある。

なんで「これが正解」って言われているように感じてしまうんだろうって考えると、僕が三谷幸喜をすごい人だと思ってて、彼が番組で言ってたことが素晴らしいと感じたからだとわかった。すごいと思ってる人が素直にいいことだと思えることを言っていると、それが正解のように感じてしまう。

正解はたくさんある。だけど好きな人が一つの正解を言っていたら、その正解を好きになってしまうかもしれない。


ここで、他人から必要とされる仕事が目の前にあっても自分のやりたいことが別にあって悩んでいる人がこの番組を見たらどう思うのかを考えた。その人が三谷幸喜を好きだったら。

僕は嫌な気持ちになった。



僕が嫌な気持ちになったのは言葉を聞いてすぐのことで、その瞬間に僕が自覚したのは介護職の同級生みたいな人がこの番組を見ていたらという想像だけだった。

ああ、自分の意見を通して生きるってこんなにも難しいんだなと、僕は思った。好きと好きが対立する時に、どんな好きよりも自分を好きでいられないと、真っ直ぐには生きられないんだろうと思った。それから、別に真っ直ぐ生きる必要はないとも思った。


こんな言い方をすると口が悪いけど、世の中には多角的な見方ができない人もいる。そういう人が、テレビやネットで流れる説得力のある正解に苦しめられないことを祈る。

世界にはいろんな正解があって、自分が選んだものも正解なんだと、自分が幸せになることで証明しなきゃいけない。幸せそうに見える人たちの選んだものが正解なんだと思うと苦しくなる。そして、僕も気を抜くとそう考えてしまいそうになる。

だから僕は、すごい人がいいことを言っているのが嫌いだ。


それでは。

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