C×C(シー・バイ・シー) 作曲家が作曲家を訪ねる旅 Vol.3 山根明季子×ジョン・ケージ[生誕110年、没後30年]
成田達輝(ヴァイオリン) 東条慧(ヴィオラ) 山澤慧(チェロ) 丁仁愛(フルート) 田中香織(クラリネット) 相川瞳(打楽器) 大瀧拓哉(ピアノ) 佐原洸(エレクトロニクス)
プログラム
ジョン・ケージ:ヴァイオリンとピアノのための「6つのメロディ」(1950)
ジョン・ケージ:ザ・ビートルズ1962-1970(1990)
山根明季子:状態 No.3(2022 新作初演)
山根明季子:キッチュマンダラかわいい(2021)
ジョン・ケージ:セブン(1988)
山根明季子:カワイイ^_-☆d(2022 神奈川県民ホール委嘱作品・初演)
ケージ作品「6つのメロディ」…「4部分の弦楽四重奏曲」(1950)と同様、限られた素材による作品。四重奏曲と同じくヴァイオリンは弓の圧力をかけないので、頼りなさげな、優しい音がする。6曲からなる構成、舞曲調の曲もある点などは、バッハの組曲を想起させる。バッハでは調性が曲間を結び合わせていた。本作では調性に代わって限定的な音素材が曲の間の紐帯として機能すると捉えて良いのではないか。
ケージ作品「ザ•ビートルズ」…ビートルズの楽曲の断片がばらばらと奏される。これも音素材の研究と言えるのではないか。一つのバンドの楽曲ゆえ、音楽観がある程度一貫していることから音素材の等質性が担保される。そのため、音印象にも統一感が生じる。音素材によって一貫性を生み出している点で「6つのメロディ」と軌を一にする方法論である。
山根作品「状態 No.3」…3人の奏者が同時にそれぞれ別個の古典作品を演奏する。プログラム•ノートによれば「何かが「重なっていること」そのものの体感」を目的にするという。しかし、奏されるのがある程度知っている作品の場合、どうしてもその曲を耳で追ってしまい、重なり合いによるカオスそのものを体感することは難しい。例えば声部を極端に増やす(アイヴズを挙げるまでもなく先行する試みは多数あるけれど)、逆に素材自体を予め徹底的に加工して原典の想起をブロックするなど手立てが必要なのではないか。
山根作品「キッチュマンダラかわいい」…耳に馴染んだ「西洋音楽由来の音素材を、本来の機能や構造からいったん剥がし、表面的に•匿名的に扱い並列して構成した作品」(プログラム•ノート)。こうしてばらばらにされたさまざまなパーツを一覧してみると、作家の狙いをよそに各要素と本来帰属していた文脈との結びつきは依然強力で、単体として抽出することの難しさがわかる。とは言え、乾いた、彩り豊かな音たちが飛び交うさまはなかなかに楽しい。ナンカロウに通ずる響きがしたりもするけれど、リズムなど極端な統制があるわけではなく、「かわいい」の多様性があらわされていると思う。
ケージ作品「セブン」…限られた素材によりながら、静謐な、しかし豊かな音空間が出現する。打楽器奏者が雛壇を擦るかすかな音などは実演でなければ体感しづらいものだろう。
山根作品「カワイイ^_-☆d」…各奏者が「カワイイ」と思う音を奏するという、テクストによる作品。奏者の、究極的には奏者•聴衆を問わず各個人にとっての「カワイイ」の多様さを示そうとするものか。ただし「作者自身がかわいいと感じる複数楽句が提案として書かれて」(プログラム•ノート)いるとのこと。ここで気になるのは「カワイイ」を判断する主体が誰なのかということである。「提案」の取捨選択は奏者が「カワイイ」と思うか否かの判断によるというのだけれど、作曲者が譜例を示すことで、奏者が作曲者の意向を考えることは避けられない。すなわち、奏する音の選択が完全に奏者の裁量に委ねられていることにはならない。奏者による「カワイイ」観の差異を際立たせるのであれば、同一楽器もしくは発音原理を同じくする楽器同士のアンサンブルで、同様のインストラクションを与えるなど、ほかの選択肢も検討の余地があると思う。
全体を通じて音素材の扱いの諸相に関わる考察が根底にあったと思う。非常におもしろく、かつ重要な課題だと思われる。ただ、その深い考察が新しい作品の中で活かしきれない憾みがあった。今後の展開に期待したい。(2022年9月10日 神奈川県民ホール•小ホール)