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「レオポルド美術館 エゴン・シーレ展」

シーレと同時代の、クリムトをはじめとするウィーン分離派などの作品も多数、というか、シーレ作品は展示作品(115点)の半数足らず(49点)。これで「シーレ展」て言われてもねえ……と心の中で少々ぼやき始めつつ観始めた。

ところが、クリムトの作品「シェーンブルン庭園風景」(1916)の前で足が止まる。不思議な絵である。画面の下3分の2を池の水面が占める。巨木の水影が梢まで描かれている。おもしろいのは、池のほとりに立つ巨木(描き込まれたごく小さな人影からその大きさがうかがわれる)の実物のほうは画面上端で梢の部分が切れていることである。同様に実景の空も見えていないのだが、画面下端にはしっかり水面に映る空が描かれている。いわばイメージ、つまり虚像が主役となっている。作家の虚実に対する姿勢の一端があらわれたものか。

ほかに印象に残ったのはアルビン・エッガー=リンツの作品群。「昼食(スープ、ヴァージョンⅡ)」(1910)は、5名の男女が室内でテーブルを囲んで黙々とスープを飲んでいる場面を描く。画面左端に窓があり、陽が差し込んでいる。テーブルの手前、画面中央でベンチに座る男性のみこちらに背を向けていて表情が窺えない。男性の尻の脇のベンチ座面に一箇所白く光っている部分がある。窓から差し込む日光だろう。日常生活の中でも、何でもない光がふとした拍子に特別に美しく見えたりすることはある。川端康成がハワイで行った講演「美の創造と発見」では、滞在先のホテルの食堂でのエピソードが語られている。朝日を浴びて輝くガラスのコップの美しさに気づいた際の感慨をごく丁寧に綴っているのである。

「昼食」は、なんの変哲もない日常の一コマを描きながら、画面全体が宗教的な神秘を孕んでいるように感じられる。エッガー=リンツは、ベンチに当たる光に一種の超越的存在を感じたのかも知れない。

同じ作家の「エッツ渓谷の牧歌的風景」(1911)も不思議な魅力のある作品だった。茶色くなだらかな丘が描かれているだけの絵なのだが、地肌全体にふくよかな、ビロードのような感触がある。よく見ると茶一色に見える地表部分にうっすらと陰影が描かれており、微妙な起伏があることがわかる。一見平坦に見える自然の地形の中に、実際にはわずかな凹凸が存在する。作者はそれを繊細に読み取り、画面上に表現しているのである。この地脈のようなものを、作家は一種の啓示のように受け取ったのではないかと想像する。森の木立を描いた「森の中(〈祈り〉のための習作)」(1895)も、中央の2本の木のしんとしたたたずまいが神秘的な佳品である。

さて、順路の後半は真打登場といった感じで、本格的にシーレの作品の展示となる。油彩、ドローイングなど40点ほどが並ぶ。中でも最も心惹かれたのが鉛筆とグワッシュによる「赤い靴下止めをして座る裸婦、後ろ姿」(1914)である。裸身の女性を真後ろから捉える絵で、いびつにゆがんだ線で縁取られた背中のあちこちに茶や緑が不規則に塗りつけられている。ぱっと見たとき、失礼ながら薄汚れた絵だなと感じた。が、同じく「裸体」のセクションに展示されている、「背中向きの女性のトルソ」(1913)を観ていてふと思った。女性のむき出しの脚を後ろから捉えた絵なのだけれど、こんなに単純な線で描かれているのに、なぜふくらはぎの柔らかなふくらみが感じられるのだろう。よく眺めてみると、線のみではなく、要所要所にごく淡い陰がつけられており、それによって皮膚の起伏が巧みに表現されている。この陰影を極端にしたのが先の「赤い靴下止め~」なのではないか。そう思って観直してみると、不思議なことに裸婦の後ろ姿がなんとも魅力的なものに感じられ始めた。女性のうなじから肩にかけての艶っぽくて美しいこと。そして、何より肉体の立体感。皮膚の下に存在する、縦横に複雑に張り巡らされている筋肉、そして止まることのない血液の流れまでが感じられる。無造作に置かれたように感じられた色彩たちが、実は人の身体の微妙な起伏を、実に繊細に、ニュアンス豊かに表現しているのだとわかる。捉え方によってこうも印象が変わるのか。いささか衝撃を受けつつ、己の不明を恥じる。一方、観れば観るほど魅力的な絵と感じられ、引き込まれていく。いつまでも観ていたいとさえ思った。身体の凹凸を読みだしていく過程は、先に観たエッガー=リンツ作品にも通じると考えた。

ミケランジェロはじめルネサンス期の芸術家たちが創作した、筋骨隆々たる人体の彫像は、人間の身体そのものの美しさをあらわしている。けれど、それはあくまで均整のとれた形の美であろう。シーレの表現した人体はこれとは全く趣を異にする。前者の抽象化・理想化された形式の美ではない。シーレにおいては、目の前にいる個人の(すなわちモデルの)、切れば血の出る肉体の美である。そこに蓄積された人生や感情、様々な思い、あらゆる来歴を背負った、体温のある身体の美しさである。極端に私的な事象は、普遍性を帯び始める。「極端は相接触する」(森鴎外「サフラン」)のである。モデル個人のパーソナルな領域を丹念に引き出すことで、多くの鑑賞者にとって、モデルの感慨を自分自身に引き寄せて観取することが容易になるからだろう。その目で見直すと、油彩やグワッシュによる有名な自画像群も、また異なった相貌を呈し始める。一見病的にさえ見える、極度に青ざめた表情も、奇妙に捻じ曲がった形の手も、しっかりと体温と明確な主張を持った像として立ちあらわれてくる。

なお、シーレの作品に登場する人物は非常に不自然なポーズをとっていることが多い。今回、自画像などを観ていて直観的に浮かんだのは、その奇妙なポーズがいわゆる前衛舞踏における身体の動きに近いのではないかということである。身体という存在自体を見直し、その機能を極限まで究めようとする点で、両者を近いところに位置づける可能性がある。

シーレはひたすら平面作品を制作していった。あくまで虚像である二次元の図像の中で、いかに実像の手触りや温度を表現するか、それを追求する画業だったのだと思う。この点で、最初に述べたクリムト作品における虚実の問題ともつながるかと考えた。が、牽強付会に過ぎるかもしれない。(2023年1月26日~4月9日 東京都美術館)

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