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みなとみらいピアノフェスティバル2024 第1部「春はいけにえ。秋はピアフェス。ー「儀式」の再構築ー」
和田華音(ピアノ)、川崎槙耶(ピアノ)
ストラヴィンスキー:春の祭典(ピアノ連弾版)
気鋭のピアニストお二人による1曲プログラム。
今回演奏されたピアノ4手版は、管弦楽版と並行して書かれたそうである。本作の楽譜としては管弦楽版に先んじて1913年に出版されたという(管弦楽版が最初に出版されたのは1921年)。この4手版は練習用伴奏のためのバージョンとおぼしい。つまり、バレエの要所要所での動きのキューとなる音を示すものであろう。こうした特性を反映すると思われるのは、例えば、管弦楽版ではかなり目立つ、第1部「序奏」における高音の装飾的パッセージがばっさりと削られている点などである。そうした実用的機能を持つことから、作曲者が考えていた曲の骨組みをある程度示してもいると推測される。
曲の中核部分が取り出されたことによって見えてくるものもある。例えば第2部の終曲「生贄の踊り」を聴いていると、本作は中核の部分がジャズの影響を色濃く受けたピアノ音楽だったということがはっきりとわかる。
全体にかなりの快速で飛ばす演奏。オーケストラよりもはるかに機動性が高い4手版の特性が充分に活かされていたと思う。
第1部と第2部終結部は和田氏が高音部、川崎氏が低音部で、第2部の開始部から終盤直前までは交代。二人ともシャープな弾きぶりだが、高音部の旋律の弾き方にそれぞれの特色があらわれていた。和田氏はしなやかに踊るかのよう。川崎氏は、ぎりぎりまで絞り込んだ、時に厳しい音色が印象的だった。お二人の力演に大拍手。
4手が同じ音域に集中する場面で4本の腕が互いに複雑に絡み合うさまは美しく、エロティックでさえあった。奏者の肉体性が前面に出てくることで、改めてバレエ音楽だということを実感する。
今回は独自の「あらすじ」を構成し、パフォーマンスも取り入れた公演であった。「あらすじ」の概略は以下の通り。
「神」を信仰する「村」で春の儀式が行われている。が、村人のうちの2人が「神」の真正性を疑い、儀式を中断させる。2人はそのかどで、他の村人たちによって生贄とされる。2人はその決定を受け入れるが、「神」の像を引き倒して神の不在を訴える。そして「生贄の踊り」を踊る。
第1部が終わったところで、奏者は袖に下がり、舞台上に置かれたPCによって、雑踏音と、親しい女性同士の会話と思しき声が交互に再生される。短い休憩も兼ねて、作品世界と今回用意されたあらすじとを現代に接続させる狙いか。
舞台中央にピアノ、両脇に椅子が6脚ずつ乱雑に置かれている。第2部第11曲「選ばれし生贄への賛美」直前の小節(11/4拍子)が引き伸ばされている間(「儀式の中断」)に、椅子はピアノの方に向けて横一列に並べ替えられる。いよいよ生贄を捧げる場面、ということだろうか。そして、上手側にはイーゼルに載せた額縁が運び込まれる。額縁の中には作曲者のトレードマークと思しき丸い黒縁眼鏡が一つ貼り付けられている(「神の像」)。だが、第2部末尾の第14曲に入る直前に額縁は引き倒される(「神の像」の損壊)。
しかし、「いない」はずの「神」は、曲の中に強烈な推進力の形で確かな刻印を残している。その力によって、「生贄」たる演奏者も、「他の村人たち」である聴衆も、曲の終わりまで一気に導かれていくという皮肉。「生贄」を差し出す側のはずの「他の村人たち」(=聴衆)もまた、作品という「儀式」を存続させるための「生贄」として機能し続けているのではないか。そしてそれは、この「春の祭典」という「儀式」を凌駕する「儀式」がいまだにあらわれていないということではないか。「儀式」が存続する限り、「生贄」は必要とされ、また、「生贄」がいる限り、「儀式」は存続する。果たして聴衆という「生贄」は本作という「儀式」から解放されることがあるのだろうか。(2024年10月18日 横浜みなとみらいホール・小ホール ※タイトル写真は終演後の舞台)