2022年3月29日「大江戸スクランブル 夢介千両みやげ/ショー センセーショナル!」

宝塚大劇場に初めて足を踏み入れた。本拠地ゆえか、土地柄か、すべてがゆったりしていると感じる。

今回の目的は、このあとの東京公演を最後に退団する綾凰華(あやな)さんの姿を心に焼き付けることに尽きる。ショーでの風神のナンバーは自身の作詞とのこと。たしかに、これまでの研究科生活を、コンパクトながら丁寧に振り返る内容だった。組替えとか、同じ組の同期がどんどんいなくなってついに1人になるとか、下からの突き上げとか、さまざま大変な思いを重ねてこられたのだろう。しかし、舞台上の本人の表情には過度な気負いは感じられず、いつものように、否いつも以上に優美で、温かく、しなやかな身体の動きを楽しませてくださった。歌も、以前のような力みがなく、ごく自然に溢れてくるもののように感じた。一種覚悟のようなものも覚える。

宝塚歌劇は全ての役を女性が演じるのだけれど、男女の役割を固定化しているところがあって、それはジェンダー・バイアスの点からはどう評価されるのだろうと常々思っている。固定化の端的な部分は、娘役は「男役がより輝くように」を行動原理として役が構成されていくことである。だが、男役のジェンヌさんにしても、女性がどう扱われたら快適か、少なくとも不快感が少ないか、ももちろん知っている。相手を立てなければ、というと形式的になるけれど、深いところでの相手に対する尊重/尊敬がなければ、共に同じ時間を過ごす際の真の心地よさには繋がらない。つまるところそれは対異性に限らず、人間同士の関係性における基本のはずだ。

あやなさんは男役でありながら、娘役の視点をきっちり持った人だと思う。相手が男役でも娘役でも、自分が自分がと主張するのでなく、常にふわりと、相手が動きやすいように振る舞っているように見える。小柄な娘役に対しても、場合によっては自分より大きな男役に対しても、同じようにしなやかに接せられるのは、鍛え抜かれた身体能力があってこそのものだと思う。

(その意味では-語弊を恐れずに言うなら-「男役らしくない男役」である。改めて考えてみると、自分はあやなさんのそういうところに最も惹かれているのである)

過不足ない距離を保ちつつ、相手に敬意をもってきちんと寄り添っていくから、相手も、そしてあやなさん自身も素敵に輝く。そうしてあやなさんは数多の印象的なステージを作り上げてきた。

下世話なことながら、一旦「路線」と位置づけられれば、否応なく上を目ざすことにロック・オンされ、己も周囲も同様のベクトルを共有せざるを得ない。となると、自分が他者より前に出ることが求められてくる。邪推に過ぎないけれど、ご本人の中では-娘役視点を明確に持つことも要因の一つとなって-さまざまな葛藤があったのではないだろうか。きっと悩みに悩んだ末の決断だったのだと想像する。

そんなことを思うにつけ、いつも通りあくまでひたむきに舞台に取り組む姿が、なお一層輝いて、同時にとても切なく思える。どの場面も、誇張でなく心に刻むつもりで観た。東京でもできうる限り観たいと思いつつ、劇場をあとにした。(宝塚大劇場)

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