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「ゲルハルト•リヒター展」

会場に入ってすぐの展示室中央に「8枚のガラス」(2012)が展示されている。作品の4つの隅からガラスの中を覗くと、各々のガラスに映り込んだ天井の小さい照明が数次の反射を経て、小さな星雲のように見える。会場を行き来する鑑賞者や監視員の幾重にもダブる姿も加わり、不思議な美しいイメージが立ちあらわれる。

「アブストラクト•ペインティング」シリーズは、観たところタイトルの通り、抽象的なイメージの表現に思える。画面をよく観ると、キャンバス上においた絵の具をスキージーやペインティング•ナイフなどで延ばし、引っ掻き、その上にまた絵の具をおいて、ということを繰り返しているようだ。2次元の平面の上にいくつかの層(レイヤー)を重ねる作業である。その際、上位の層は必ずしも画面全体を覆うわけではないため、ところどころ下位の層が露出する。それぞれの層は独立したイメージをあらわす。それゆえ、鑑賞者が目にするのは多くの場合は最上層のイメージだが、その下には複数の層が塗り込められている。そのさまは部分的な露出によって窺われる。

この「アブストラクト•ペインティング」における「ペインティング(painting)」は「絵画」ではなく、「描くこと」を言うのではないかと考えた。絵を描く際になされているのは極めて具体的な「描く」行為である。しかし、画面上に残るのは手の動きが絵の具に刻印されたものであり、行為の痕跡である。すなわち、手の動きから時間を捨象することによって生み出された表現である。作品の「アブストラクト」とはこのような意味での抽象化ではないか。この見立てが正しければ、本シリーズの各層には、異なる時点での手の動きがイメージとして刻印されていることとなる。

輻輳するレイヤーというコンセプトは、「8枚のガラス」において複雑に重なり合うイメージと通うところがある。2019年に六本木のワコウ•ワークス•オブ•アートで、この「8枚のガラス」とともに当時の最新シリーズ「PATH」が展示された。「作家がイタリア北部にある保養地マッジョーレ湖の湖畔で撮影した、森の小径の風景写真」をインク・ジェットでプリントしたものに引っかき傷をつけたエディション作品である(引用は2019年展示の際の概要より)。支持体が紙ということもあって、引っ掻き傷は手の動きの刻印というには弱々しく、視線の動きとしか感じられなかった。だが、紙を引っ掻く動きももちろん手の動きであり、作家としてはこれも一つのレイヤーをなすことを企図していたはずだ。リヒターの作品に通底する要素の一つは、こういったイメージの輻輳ではないかと考える(図録所収の鈴木俊晴氏(豊田市美術館)の論考によると、最近のインタビューの中でリヒターは自らについて"Bildermacher(イメージメーカー)"と呼ばれるべきかもしれない、と述べている由)。写真の上に油彩で色や形を描き込む「オイル•オン•フォト」シリーズは、イメージの輻輳が極めてわかりやすい形で実践されている。

人間の視覚は同じ視野の中において、互いに独立した複数のイメージを同時に把握することは難しいだろう。だが、視覚で眼前のイメージを把捉しつつ、脳内でそれとは別個の-場合によっては複数の-イメージを想起することは可能である。リヒターが平面作品で実現/再現しようとしていることの一端は、こういった人間の内面での重層的イメージの生起なのではないか。

260×200の大きな油彩4点からなる「ビルケナウ」(2014)は、ナチスの収容所で密かに撮影された写真が下層に描かれている。鑑賞者はその写真を観ることはできないのだが、同時に展示されている複製写真から想像するよう導かれるのだという。歴史上重大な意味を持つ土地の名をタイトルとして冠する作品は、鑑賞者の内面においてレイヤーの再構成を促す。間違いなく作家の強い気持ちが感じられる作品である。ただし、思いが先に立つせいか、画面上の表現自体はやや紋切り型に感じられる。本作以降の、名前を持たない「アブストラクト•ペインティング」のほうがおもしろい。(2022年6月7日-10月2日 東京国立近代美術館)

✳︎見出し写真は「オイル•オン•フォト」シリーズより「1998年2月14日」(1998)

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