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【短編小説】滞空ケトル 2

1の続き)


 ☆☆☆


 「ねえ、一人暮らしなのにずいぶん大きなポットを使ってるのね」

 裸足のまま狭いキッチンに立った菜々美が、難しい顔で電気ポットを睨みながらそう言った。彼女は昨夜身に着けていたのと同じ花柄の入った濃い紫のワンピースを着て、秋斗の貸したタオルで濡れた髪の毛をきれいにくるんでいる。
 「親父のなんです」と秋斗は応えた。「そのポットも、洗濯機も、冷蔵庫も、ぜんぶ親父が単身赴任しているときに使っていたものなんです。あんまり大きいから捨ててしまったけど、七十五インチの液晶テレビまであった。会社が金を出してくれるっていうんで、家具も家電も必要以上に良いものを選んだらしい。きっと景気が良かったんですね」
 「お金持ちなのね?」
 藤空木をかたどった真鍮のイヤリングが、彼女の薄い耳朶の下でちらちらと揺れた。
 「どうなんだろう。よくわからないけど、業界全体に金が余ってたっていうだけなんじゃないですかね」
 彼女は秋斗が言ったことの意味についてしばらく考えているようだった。右手の指先でそっとイヤリングを掴み、その輪郭を確かめるようにしばらく握っていた。ものを考えるときに手で何かを触るのが彼女の癖なのだ。
 「でもさ、お父さんはけっきょく社長にまでなったんでしょう? よほど凄いことをしたんじゃないの」
 今度は秋斗が考える番だった。ベッドに腰かけたまま足を組み、わざとらしく眉間にしわを寄せた。
 「知ってますか? 温暖化が騒がれていた時代には、高層マンションが隣接する建物のオーナーに景観整備のための資金を援助することがよくあったらしいんです。せっかく見晴らしのいいビルを建てても、窓から見下ろした景色が室外機だらけじゃ値段をつり上げられないし、環境保全に無関心だと思われると評判も落ちてしまいますからね。それで屋上に木でも植えなさいって、下々にお金をばらまいたんです。親父はその金に目をつけた。担当する地区にある高層マンションの広報担当にいち早く取り入り、隣接する土地の所有者との仲介役を買って出た。二者は日照権の兼ね合いで既にもめていることが殆どだったから、調整的な役割をしてくれる第三者はけっこう重宝されたみたいです。そうやって親父のいた会社は大きな利益を上げた」
 「そういう話を聞くと余計に、お父さんはお金の在処と使いどころを知っていた有能な人だったという気がするけど」
 そう言うと菜々美はキッチンを離れ、秋斗の隣に腰を下ろした。ベッドがたわみ、二人の肩が擦れ合った。
 「そうかもしれない。どんなものでも、あるところにはあるし、ないところにはない。今より随分いい加減な時代だったとはいえ、当時だって本当の意味で金を使えた人間は、実際のところほんの僅かだったのかもしれない。そういった意味じゃ親父は運が良かったんでしょうね。良い時に、いい場所にいた。いずれにしても過去の話です。親父は二年前にくも膜下出血で死んでしまったし、金遣いが荒かったせいで財産と呼べるものは殆ど何も遺さなかった。不釣り合いに大きくて無駄に頑丈な家電だけが、こうしてぼくの部屋に押し込められている」
 秋斗は自分の声が熱を帯びてくるを感じた。久しぶりに腹が立ってきた気がしたが、不思議と気分は悪くなかった。
 「わたしはこのポットのデザインも悪くないと思うよ」そう言うと彼女は体を小刻みに揺らしてくすくすと笑った。それから急に声のトーンを落として囁いた。「ねえ、 いまでもお父さんを許せない?」
 「どうだろう。親父のやったこともなかなか面白いじゃないかって、最近では思います」
 「それじゃあテレビのことは?」
 「テレビ?」
 「さっき、テレビは捨てたって」
 「いや、別にテレビが嫌いなわけではないです。たとえ壊れていなくても、日常生活に必要のないものまで置いておく余裕はなかっただけで」
 「ふうん」と言って、菜々美はあらためて彼の部屋を見回した。そこには七十五インチのテレビと二人掛けのソファを置いてもまだ、彼女の使っているピラティスマットを敷くくらいの余地がありそうだった。
 「それに、テレビに映る誰かの顔をこれ以上嫌いになりたくなかったから」弁解するように秋斗は言った。
 「なるほど」
 二人は顔を見合わせてぎこちなく笑った。秋斗は菜々美のイヤリングにそっと手を伸ばし、手のひらで包みむように握ってから親指の腹で彼女の耳朶を優しく撫でた。菜々美は秋斗から目をそらすことなく、頭に巻いたタオルをそっと外した。どちらともなく顔を寄せてキスをして、それからけっきょく昼過ぎまで抱き合っていた。


 ☆☆☆


​ 湿気をはらんだ冷ややかな風が二人の肌を撫ぜ、高架下の草木のあいだを忙しなく吹き抜けていった。ちぎれた雲のかたまりが空の低いところを滑るように通り過ぎていく。そのうちに雨が降るだろう。でもそれはもう少し先のことだ。車道を隔てた縁石沿いに等間隔に立ち並んだ椿は、その硬く艶やかな葉に暖かな陽光を浴びて輝いている。素敵な昼下がりだった。

 パスタを食べているあいだひっきりなしに喋っていた菜々美は、今は何も言わず秋斗の前を歩いている。
 ワンピースの背中からのぞく菜々美の健康的な肩の動きをぼんやりと見つめながら、秋斗は店で彼女が話していたことを一つひとつ思い出していった。最近読んだ漫画の感想、禿げ頭の上司の愚痴、ピラティスの成果、旅行の計画、将来の話...。ムール貝の中身をナイフの先とフォークを使って器用に選り分けながら、彼女はまるで二十代半ばのごくありふれたOLのように、当たり前のことに感動し、当たり前のことに腹を立て、当たり前のことで人生を彩ろうと試みているようだった。そういう努力がどれほどの成果を上げていて、はた目にはどのように映るものなのか、秋斗にはよくわからなかった。誰かを好きになるということは、その人に対する客観的な視点を失ってしまうということなのだろう。着ている服やしぐさや表情や、それらが抱える途方のない矛盾がとびきり魅力的に見える。何かの暗示を孕んだ透かし絵のように、その他大勢の中からある人だけが際立ってくる。そうなってしまったらもう、あきらめるしかない。

 「唯華ことだけど」道の途中で立ち止まって菜々美は言った。「どうしても好きになれないところが一つあったわ」
 まるで自分の鼻先に向けて話すような小さな声だった。 
 「世の中に根っからの悪人はいないんだって、本気で信じ込もうとしていたところ」
 彼女は金網のフェンスを掴み、何かを探すように立体交差の裏側を見上げた。つられて秋斗も顔を上げたが、そこに見るべきものは何もなかった。塗装の修繕を終えたばかりの巨大な鉄骨が、昼の日陰の中でてらてらと光っているだけだった。
 「御堂筋線に二人で乗っていたとき、痴漢にあったことがあるの」
 菜々美は中学一年まで大阪に住んでいた。きっとそのときのことを話しているのだろう。中学校が姉の通う高校のすぐ近くだったので、当時は毎日一緒に電車で通学していたと話してくれたことがある。秋斗は頭の中で手早く西暦を計算した。二〇一一年。東北で大きな地震があった年だ。
 「その日は朝から強い雨が降っていて、電車の中はひどく混んでいた。だから初めのうちは鞄か何かが押し当てられているだけだと思った。でも違った。断続的ではあったけれど、それは車両の揺れとは無関係に動き、わたしのスカートの中を不自然にまさぐった。
  気づいたときには、男の太い指が股のあいだに差しはさまれていた。体がこわばって、全身から嫌な汗が噴き出すのを感じた。声を上げることも振り返ることもできなかったわ。脚から力が抜けてしまって、わたしはその場にしゃがみ込んだ。男がとっさに手を強く引いて、そのせいでわたしは前のめりになって膝から床に倒れ込むことになった。きっと周りの人には、満員電車で気分が悪くなったように見えたでしょうね。
  唯華はそこでやっとわたしの異変に気付いたみたいだった。彼女は次の駅でわたしを連れて降りて、ホームのベンチに座らせて落ち着くのを待ってくれた。わたしはしばらく口を利くことができなかった。痴漢に遭うのはそれが初めてだったから、自分の姉にさえ、何をどんな風に伝えればいいのかわからなかった。頭が混乱して、うまく泣くこともできなかった。それでも唯華は、何も言わなくてもわたしの身に起きたことがわかったみたいだった。彼女はただ手を握ってずっと隣にいてくれた。それだけでどれほど心強かったかしれない。本当に、心の底から感謝してるわ」
 菜々美は秋斗の方を振り返った。マスクで顔の半分が隠れていても、血の気が引いて表情がこわばっているのがわかった。目の縁だけがわずかに赤みを帯びて潤んでいた。
 「でもね、そのときわたしはこうも考えたの。もし唯華がわたしに起こったことを無理にでも話させて、そのことで一緒に腹を立ててくれたらどんなに救われただろうって。今でも思うわ。その男の行為を罵り、理不尽な暴力を責め、世間を憎む機会をくれたら、わたしは唯華のいない世界でも自分を見失わずに済んだかもしれない、と」
 金網を掴んだ彼女の右手は、関節が白く浮きでるくらい固く握られていた。

 「たしかに姉さんは正しいわ。正真正銘の悪人なんてこの世にはいない。そう思える日もある。でも、だからってろくでもない行為をぜんぶ許していいってことにはならないじゃない」


 ☆☆☆


 駅で菜々美を見送った後、秋斗は徒歩で動物園に向かった。
 その動物園は伊勢湾を臨む小高い丘の上にある。大学の研究施設を兼ねていて、世界各地の鸚鵡の展示とその網羅性にかけては全国的に有名だった。秋斗がそこで研究員として働き始めてから、そろそろ一年がたつ。

 丘には霧のような雨が降り始めていた。カピバラのケージの前を雨合羽を着た小さな男の子が走って通り過ぎ、その後ろを揃いのジャージを着た若い夫婦がとても楽しそうに笑い合いながら歩いていった。向かいの檻ではオカピとマレーバクがひたすら干し草を食んでいる。気怠い午後の雨の中、彼らはやけに神妙な面持ちでもごもごと下顎を動かしつづけていた。
 秋斗はパーカーのフードを目深に被り、小走りで研究棟を目指した。雨粒は殆ど見えないが、肩と袖口がいつの間にかぐっしょりと濡れていた。職員駐車場の一番端にぽつんと止められたジムニーのボンネットにはびっしりと水滴の膜が張っている。先刻まで彼を包んでいた温かく親密な春の予感は、いつの間にかすっかり消え失せていた。

 当直の同僚に声をかけて鸚鵡の様子を見たいと言った。彼はデスクに腰かけたまましばらく無言で秋斗を見上げていた。なにか言いたそうだったが、結局何も言わなかった。やがて抽斗から鸚鵡小屋の鍵を出して秋斗に手渡してくれた。元々それほど覇気のあるタイプではないが、彼の動作はいつにも増して緩慢で気怠そうに見えた。
 研究棟の裏手に回り、古い木造の小屋の南京錠を外した。湿気を吸って歪んだ扉を思いきり力を籠めて押し開けると、檻の中の鸚鵡たちがギイギイと神経質そうに鳴いた。鸚鵡は急な気候の変化に晒されるとふさぎ込み、病気になってしまうことがある。ここはそういう鸚鵡たちを一時的に移しておく避難小屋のような場所だった。今はシロビタイムジオウムとヨウムがそれぞれ一羽ずつこの部屋に移されていた。
 ひと通りの世話は朝のうちに同僚が見てくれているようだったが、帰ったところで特にすることもなかったから、秋斗はなるべく時間をかけて二羽の様子を見ていった。抜け落ちた羽と糞を拾い集め、水と餌を新しいものに取り替え、尾羽をかき分けて紛綿羽の具合を確認した。気圧の影響で二羽ともかなり気が立っているようだった。シロビタイムジオウムはおもちゃに与えた竹串を右足でつかんでごりごり齧りつづけていたし、ヨウムは自分の羽をひっきりなしについばんでいた。
 彼らにはそれぞれ「ネロ」と「アリス」という名前がある。園内の地図が載ったリーフレットにもちゃんと書いてある。動物園で飼われている生き物なのだから当然だ。個体を特定する名称がないと管理なんてできないし、何より来園者に親しみをもってもらえない。しかし秋斗は動物たちを人が勝手に決めた名前で呼ぶことに抵抗があった。なぜかは分からない。鸚鵡のような頭のいい動物は名前を呼ばれると確かに反応してくれる。特定の愛称で呼ばれることに満更でもないような表情を見せることだってある。しかしそれでも、秋斗は差し迫った要請(たとえば十数羽の同種の鸚鵡の中から特定の一個体を指し示したい場合など)がない限り、なるべく彼らをその一般的な総称で呼ぶようにしていた。それは養豚場の農夫がいちいち子豚に名前をつけたりしないのと似たような理由かもしれない。

 研究室のPCにひととおりの記録をつけ終えて部屋を出る頃には、外はもう薄暗くなっていた。
 廊下の自販機で缶コーヒーを買い、窓際の長椅子に腰を下ろした。雨どいをつたう水の音を聞きながら、菜々美がパスタ皿の隅に丁寧に積みあげた一ダースばかりの貝殻を思い出し、小さくため息をついた。凡庸であることに対して懸念を抱いてさえいなければ、彼女の努力はもっと早いうちに報われていただろう。その方が物事はよほどシンプルだったかもしれない。彼女は望んだものを手に入れて、秋斗は失った平穏を取り戻す。別々の場所から、お互いを尊敬し合って生きていくことができたはずだ。
 剥製のように固くごわつく長椅子の背に頭をのせて瞼を閉じる。ろくに寝ていないせいで、目の奥に黒い血がたまって淀んでいるみたいだった。蛍光色の丸い残像が鼓動に合わせてゆっくりと形を変えていく。思考にならないイメージの断片がいくつも浮かんでは消えていった。菜々美の声が想像上の唯華の声に変わり、窓際のサンスベリアは病室で見た親父の節くれだった手に変わった。その手はやがて十三歳の菜々美のスカートの中に入り込み、彼女の下着の中をまさぐった。そんなものを想像したくはなかったが、遠のきつつある意識の力では卑猥なイメージを振り払うことはできなかった。

 瞼の裏側を流れる鮮やかな泥のようなまどろみの中、秋斗はくぐもったエンジン音をずっと聴き続けていた。


3へ続く

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