「彰義隊と上野戦争」①

東叡の山色 愁烟を鎖す
独り荒れたる陵に上れば 何ゆえぞ悄然たる
遺恨なお余せども 万樹に花咲き
春風吹くは 自ずから前年に異ならず

(酒井玄蕃『東叡山』)

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MASU
はいけい

<キーワード>
大政奉還/王政復古の大号令/徳川慶喜/水戸学/勝海舟/西郷隆盛/江戸城無血開城/寛永寺/渋沢成一郎

<参考>
『江戸のいちばん長い日 彰義隊始末記』
(2018年,安藤優一郎,文春新書)
『彰義隊遺聞』
(2007年/森まゆみ/新潮文庫)

<BGM>
①曲名『Special To Me-Slow Edit』
OtoLogic(https://otologic.jp)
②曲名 『Moments』
作曲 RYU ITO 
https://www.youtube.com/ @RYUITOMUSIC

<配信>
・YouTube
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・Spotify
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<台本>


・導入

東叡の山色 愁烟(しゅうえん)を鎖(とざ)す
独り荒れたる陵(おか)に上れば 何ゆえぞ悄然たる
遺恨なお余せども 万樹(ばんじゅ)に花咲き
春風吹くは 自ずから前年に異ならず

酒井玄蕃『東叡山』

庄内藩の藩士・酒井玄蕃(1843-1876)が詠んだ『東叡山』という漢詩。

【意訳】
上野の東叡山寛永寺の景色は 悲しい気持ちを閉じ込める
一人で荒れた丘に上ると 何故だか気分が塞ぐ
恨みは未だに消えないけれど 木々には花が咲き
春風が吹くのは 自然、前の年と変わらない

この漢詩に詠まれているのは、1868年の7月に起こった新政府軍と旧幕府陣営の戦いの後の荒廃した上野山の様子。
江戸城「無血」開城は美談として語られるけど、その後の上野戦争では200名以上の戦死者が出た。

このとき朝敵と戦ったのが新政府軍を率いる西郷隆盛。
上野公園に立つ西郷隆盛の像は有名だけど、彼の像が上野公園に建てられたのはこの戦争の功績によるところが大きい。
そんな西郷隆盛像は、今も観光客が写真を撮ったり待ち合わせの場所に使ったりして人が集まっている。

その人垣のすぐ後ろには、「彰義隊戦死之墓」と刻まれた墓碑が立っている。
今回は、江戸が東京に変わる少し前、上野の山を血に染めた彰義隊と上野戦争のお話。


・時代背景

時は幕末。1853年(嘉永5年)にアメリカ合衆国東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が江戸湾入口の浦賀に来航。総司令官のマシュー・ペリーは、幕府に港を開くように要求。幕府は一旦回答を保留したものの、翌年の1854年に再びペリーが来航した際に日米和親条約を結び、下田と函館の2港を開港。これによって、3代将軍徳川家光以来200年あまり続いた鎖国が解かれた。

補足:このときアメリカは捕鯨に力を入れていた。鯨からとれる油(鯨油)は灯油やろうそく、石けんなどの原料として、また機械の潤滑油として利用され、産業革命期の工業を支えていた。しかし、1859年にペンシルベニア州で油田が発見されると、アメリカの捕鯨産業は衰退する。さらに、1861年に南北戦争が始まると他国に干渉する余裕もなくなってゆく。


そんな事情を幕府はある程度把握していたが、他国との戦力差を見せつけられたことで社会は混乱し、安易に条約を結んだ幕府を倒し、天皇を政の中心に据えて新しい中央集権国家をつくろうとする動きも出てくる。
そうした動きを封じるために、幕府は1858年に「安政の大獄」という大弾圧を行なったり、1864年に新選組を使って「池田屋事件」を起こして討幕派を粛清しようとするが、時代の波に抗うことはできず、第15代将軍徳川慶喜は天皇に政権を返上する「大政奉還」を決意。これが1867年のこと。
幕府の締め付けを受けながらも財政を立て直し、力を蓄えていた薩摩藩や長州藩を中心に明治新政府が誕生。1867年の12月には、天皇中心の政治に戻ることを布告する「王政復古の大号令」が出された。

これによって、1603年以来264年続いた江戸徳川幕府は崩壊。
明治新政府によって、賊軍となった旧徳川幕府勢力の反抗を鎮圧するための戦い、いわゆる「戊辰戦争」が勃発。1868年1月に京都で起きた鳥羽伏見の戦いを皮切りに、近代日本史上最大の内戦は1年半あまり続く。

今回取り上げる上野戦争は、そんな戊辰戦争の中の一幕。


・彰義隊結成

彰義隊のルーツは一橋家当主時代の徳川慶喜の家臣団。
徳川慶喜は、徳川御三家の一つ、水戸徳川家の藩主徳川斉昭の七男として生まれた。1847年、彼が11歳の時、御三卿の一角の一橋家に養子に出され、一橋慶喜と名乗るようになる。(御三卿は御三家よりも将軍家に血筋が近く格上とされ、次の将軍を出せる家柄とされていた)
→このときの有力な家臣が、本多敏三郎や渋沢成一郎。渋沢成一郎は現1万円札に描かれている渋沢栄一の実の兄。渋沢栄一も一橋家当主時代の慶喜に仕えた家臣の一人だった。

幕末の混乱の中、徳川家内部での権力闘争の末に慶喜は第15代将軍となる。これが1866年のこと。慶喜が将軍になったことで、一橋家当主時代の家臣である本多や渋沢らが幕政に参加するようになる。

しかし、そのわずか1年半後、大政奉還と王政復古の大号令により、慶喜は天下の代将軍から朝敵に転落する。
慶喜の生家である水戸徳川家は「水戸学」という独自の歴史観をもっていて、徳川家なのに尊王攘夷をスローガンに掲げるほど天皇びいき。そこで育った慶喜ももちろん尊王の志が強い人物であり、それゆえに朝敵の烙印を押されたことのショックはすさまじかった。
→だから慶喜は大政奉還の後一貫して恭順路線をとる。一方で、一橋家当主の時代以来慶喜に仕える本多たちとしては、朝敵に転落した慶喜を何としても救いたかった。そんなわけで、恭順路線に不満この上ない陸軍の歩兵隊に呼びかけ糾合を図った。これが彰義隊のルーツ。
→結成の時点で、恭順路線をとる慶喜と想いがすれ違っている。このことが彰義隊を不幸な結末へと向かわせることになる。

浅草本願寺(現・東京本願寺)や鎌倉の円応寺に中心メンバーが集って会合を開き、だんだん彰義隊の編成が定まってゆく。
頭取:渋沢成一郎
副頭取:天野八郎
幹事:本多敏三郎・伴貞懿(ばんさだよし)
→天野八郎と伴貞懿は旗本出身の幕臣。
→慶喜の側近である渋沢成一郎を頭取として担ぎだしたものの、隊の主導権は幹事である本多や伴が握っていた。

彰義隊は「同盟哀訴申合書」を作成し徳川家に提出する。(「慶喜さんの冤罪は私たちが決死の覚悟で晴らします」という趣旨)
しかし、この申合書は徳川家から受け取りを拒否される。

一連の動きが幕臣たちの間に広まったことで、彰義隊への参加希望者が急速に増え、たちまち千人ほどに達した。
→恭順路線に不満を抱く幕臣たちの結集の場になってゆく。


・江戸城無血開城~寛永寺に集う彰義隊~

その頃、勝海舟と西郷隆盛の神経戦は大詰めを迎えていた。
慶喜の助命を求める勝海舟と、慶喜追討のために東征軍を率いてきた西郷隆盛は、1868年3月13日、江戸薩摩藩邸の高輪屋敷で会談を行なった。(高輪ゲートウェイ駅から北北東に2kmほど歩いたところ。都営三田線の三田駅A8番出口から徒歩3分)
この会談の直前に西郷隆盛(東征軍)から勝海舟(徳川家)に突きつけられた慶喜助命のための条件は、次の7つにまとめられる。
1)慶喜は備前岡山藩にお預けとすること。
2)江戸城を明け渡すこと。
3)軍艦はすべて新政府に引き渡すこと。
4)兵器はまとめて引き渡すこと。
5)城内の人数を隅田川東岸の向島に移すこと。
6)慶喜を助けて新政府に敵対した諸大名の処分案を申し立てること。
7)新政府に抵抗して暴動を起こすものは官軍が鎮圧すること。
→このうち交渉の焦点となったのは、慶喜の岡山藩お預け、江戸城の明け渡し、軍艦と兵器の引き渡しだった。

両者は折り合えず、西郷隆盛は江戸城総攻撃を決意する。
しかし、総攻撃前日の3月14日、西郷隆盛のもとに、事態を知ったイギリスの外交官で駐日公使のハリー・パークスから怒りの手紙が届く。
パークスの指摘は主に3つ。
1)恭順を示したものに戦争を仕掛けるのは認められない。
2)国内で戦争になった場合、各国の領事に政府から通達がなければならないが、今日にいたるまでそれはない。
3)政府は外国人居留地防衛のために兵を出す義務もあるが、それもない。

痛いところを突かれた西郷隆盛の決意が揺らぐ。そんな中、その日のうちに勝海舟と二度目の会談に臨む。
7つの条件に対して勝海舟が求めた譲歩は次の2つ。
1)慶喜は岡山藩ではなく実家水戸藩のお預けとしてほしい。
2)江戸城は明け渡すが、軍艦や兵器は徳川家の方でまとめておき、寛大な処分が下されたとき、徳川家で必要な分以外の兵器を引き渡すことにしたい。
→江戸城明け渡し以外の条件(武装解除と慶喜の身柄の引き渡し)を拒否。これを呑めば新政府の代表として東征軍を率いてきた西郷隆盛のメンツは丸つぶれとなる。

苦渋の末、西郷隆盛は江戸城総攻撃の延期を決める。西郷は勝海舟のもとに直接出向いてこのことを伝えるが、その際、総攻撃は「中止」ではなく「延期」と表現した。
この決断を勝海舟は晩年まで高く評価するが、明治新政府における西郷隆盛の立場はこの出来事によって危ういものとなる。西郷の独断や、徳川家に対する弱腰な姿勢をよく思わないものが現れ、後の征韓論や西南戦争の悲劇につながる布石となっていく。

西郷が京都に持ち帰った報告を基に、新政府の最高意思決定機関である三職会議で徳川家への対応が議論される。
そこで出た結論は「慶喜の死一等を免じ水戸藩のお預けとするが、幕府が持つ軍艦や兵器はすべて新政府に引き渡すべし。しかる後に必要な分を幕府に返還する」というもの。
→慶喜の身の安全は保証するが、武装解除は譲らない、という姿勢。

この決定が幕府方に伝わると、陸海軍は猛反発する。軍艦を乗っ取ったり兵器を持ち出して脱走する幕臣が続出した。

彰義隊はこのような脱走兵や兵器の一部も吸収していったと言われる。

新政府への不満の受け皿として拡大していった彰義隊は、浅草本願寺では手狭となり、このころには上野の寛永寺へ拠点を移していた。

寛永寺は今も上野の東京国立博物館の近くにあるお寺だが、江戸時代は上野公園や東京芸術大学、科博・トーハク・西洋美術館・東京都立美術館を含む広大な領地を持つ寺だった。

1625年、三代将軍・徳川家光の命によって作られた寛永寺は、京都の比叡山延暦寺をモデルに造営された。
比叡山延暦寺は京都の鬼門にあたる北東の方角に位置しているが、寛永寺もこれに倣って江戸城の北東にあたる上野の台地に作られた。東の延暦寺ということで、寛永寺には「東叡山」という山号が与えられた。(山号とは、寺の名前の前につける称号)

死一等を免じられた徳川慶喜は、新政府によって徳川家の当主の座を奪われた上謹慎を命じられ、寛永寺の葵の間に蟄居していた。
→徳川家ゆかりの寺院であり、今まさに徳川慶喜が謹慎している寛永寺は、彰義隊が結集するのにふさわしい場所だった。

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