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【短編小説】滞空ケトル 3

2の続き)

 それはどうやら彼自身が発している音らしかった。

 彼の身体は血の通った肉体であることをやめ、ひとつの構造物として虚空に浮かんでいた。灰の混じった細かな雨が音もなく彼を濡らし、街に降り注いだ。街には見知った丘があり、川があり、海岸線がある。丘の中腹には動物園があり、川下の住宅街には彼の住んでいるマンションがある。屋上のナツメヤシが巨大な恐竜のあばら骨のような葉を海風に揺らしている。
 肉体を待たない彼に一般的な意味での目は無い。したがってこれらの景色も彼が視認したわけではない。それでも彼は街のあり様を細部に至るまでリアルに感じ取ることができた。まるで大気中に感覚器官が霧散しているかのように、身を切るような切実さでアスファルトの罅割に雨水がしみこむ微かな破裂音を聞き、実体のない心臓と共鳴する無数の室外機たちの不規則な震えを感じた。

 灰はまもなく街を包むだろう。やがて雨は止むだろうが、そのころには灰が道路や川や暗渠や、街のあらゆる溝に入り込み、正しい時の流れを阻害するだろう。気孔を塞がれた植物は枯れ、マンホールからは下水が溢れ、檻の中に置き去りにされた動物たちは最後の悲鳴を上げるだろう。彼は声を上げて泣きたかった。しかし彼にはもはや声帯も涙腺もない。わずかに残った意識さえも、泥のような眠りの中にゆっくりと沈み込んでゆくだろう。
 耐えられないほどの眠気が彼を襲う。何もかもが手遅れに思えた。


 ☆☆☆


 市街地を抜ける旧県道を内湾側に折れて5分ほど車を走らせた先に、菜々美の父が通院する透析病院がある。その小さな二棟建ての施設は、海岸沿いの防風林が間延びしたように続く黒松の林の中にぽつりと立っている。海から吹き上げる風に煽られて砂地と松林のあいだをさまよっているうちに、ふとしたすき間に偶然すっぽりと収まってしまったのだとでもいうように。
 落ち葉ですっかり車線の埋もれてしまった駐車場にスズキの黒のスペーシアを停め、何度か深く深呼吸をする。目を閉じ、時間をかけて現実の空気に身体を馴染ませる。松の葉がすり合う乾いた音に耳を澄ませ、名前を知らない何種類もの鳥たちの鋭い鳴き声を聞く。巨大な金属が軋んだような鈍い唸りが遠くから断続的に聞こえてくる。埠頭でクレーンが船から積み荷を引き上げているのだろう。菜々美は目を開けて、助手席のダッシュボードから父の処方箋取り出してをバッグに入れた。

 父は待合室にいた。車椅子の足元に若い男の看護師がかがみ込んで、浮腫んだ足に運動靴を苦労して履かせているところだった。父は看護師にも、踵が捩れてしなびたゴーヤのようになった安物の運動靴にもさほど関心がない様子で、待合室の壁にかかったテレビで高校野球の中継をぼんやりと眺めていた。

 靴を履かせ終えて顔を上げた看護師と目が合う。菜々美が会釈をすると、看護師は立ち上がってにっこりと微笑んだ。大柄でがっしりとした身体をしているが、目尻と口角に人の好さがにじみ出ている。
 菜々美はこの看護師を見るといつも熊のプーさんを思い出す。子供の頃ディズニーランドに家族で行ったときに、入り口の往来で彼女に風船を手渡してくれた着ぐるみの朗らかな笑み。こういう笑顔は訓練したってできるようになるものじゃない。彼らは生まれつき目尻と口角が上向きについていて、何も考えずとも自然に微笑むことができるのだろう。あるいはどんな物事も好意的に捉えられるよう、あらかじめ遺伝子にコードされているのかもしれない。本当の純粋さとはきっとそういうもなのだ。

 先に受付を済ませてしまい、看護師に車椅子を押されて出てくる父を駐車場で待ち構える。父は煎茶の入った紙コップを右手にしっかりと握りしめたまま、残照の中で露骨に目を細め、菜々美を見つけて力なく笑った。
 スペーシアのドアを開け、そのすぐ横に車椅子を止めてもらう。菜々美はちょうどレスリングのタックルをするような格好で、座っている父の腰に両腕を回し、スウェットのゴムを掴んで一息に立ち上がらせた。その間に看護師に車椅子を除けてもらって、彼女ごと車内になだれ込むように後部座席に押し込んだ。一連の動作を遠巻きに眺めていたケアセンターの送迎員たちから感嘆の声が上がる。看護師のプーさんもぱたぱたと大きな手をたたいて菜々美を誉めてくれた。

 旧県道に戻る三叉路の手前で信号につかまり、バックミラーで父を見る。父は紙コップを両手で持ち、真剣な表情で少しずつお茶を飲んでいる。必要以上に口をすぼめてはいるが、揺れる車内でよくお茶が飲めるものだと菜々美は感心する。
 「ねえ、お父さん。さっきテレビで試合見てたけど、お父さん野球好きなんだっけ?」
 バックミラー越しに父と目が合う。わずかに口を開け、何かを考えているようであったが、唇が何度か痙攣するように動いただけで言葉にはならなかった。
 父の肩越しに巨大な看板が目に入った。起伏のある砂丘の上を数千人の人々が列をなしてそぞろ歩いているイラストの上に、「一日の食事を十分に得られない人々が世界には10億人います」という文字が白抜きのゴシック体で書かれている。右下に関西の有力な不動産グループのロゴが小さく載っている。比較的新しい看板だ。
 その不動産グループは、かつて唯華を広告のモデルに起用したことがあった。唯華が中学校に上がる直前のことだったと思う。細かい経緯は忘れたが、母の知り合いの頼みで出演が決まり、梅田のスタジオに組んだセットで他の役者に交じって家族団欒のイメージ写真を撮ることになったのだ。唯華は休日の昼間に電車を乗り継いで指定の場所に1人で向かい、半日で撮影を終えると夕方には家に帰ってきた。菜々美が感想を尋ねると、唯華は大げさにうんざりした顔で「緊張で瞼の震えが止まらなかったわ」と言った。しかし後になって電車の窓上のポスターで見た彼女の演技は完璧だった。それが実在しない家庭だとしても、理想とはかくあるべきだと菜々美は思った。世の中がうまく回るには抽象化されたイメージが必要なのだ。幸福も不運も、充実も貧困も、AIが出力するような最大公約数的イメージが共同幻想として根を下ろしているからこそ、外れ値としての現実がドラマチックな意味を持つのだから。
 でも秋斗くんはこういうの嫌いだろうな、と菜々美は思った。きっと彼はこの看板を見て怪訝な顔をするだろう。「イメージを矯正されてる」とか言って。そしてそこから感じる違和感について辛抱強くいつまでも、場合によっては何年も考え続けて、しまいには「まあなかなか面白いじゃないか」なんて言い出すのだ。

 信号が青に変わり、菜々美はアクセルを踏み込む。それからふと交差点の上空を見上げ、そこに電気ケトルの面影を探した。もちろんそれは彼女の無意識が作り出した夢の中の幻想にすぎない。たとえ現実にそんなものが現れたところで、巨大なだけの湯沸かし器に何ができるわけでもない。しかし、それでも菜々美は、空中に佇む電気ケトルの艶やかな外見を子細に思い出せることを確認すると、なぜだかいつも少しだけ救われたような気持になるのだった。


 ☆☆☆


 午後九時一五分。秋斗はエニィタイム・フィットネスのランニング・マシンで走っている。背後のスピーカーから流れるマネスキンの「Super Model」をぼんやり聴きながら、一定のリズムで脚と腕を動かし、呼吸をする。走ることは秋斗にとって最も理にかなった気分転換だった。少なくとも酸素の交換で肺を酷使しているあいだは菜々美のことを考えずに済むし、視野のブレ抑えるために壁紙の抽象化されたアスリートのパターンを見据えてさえいれば、胸を締め付けるようなあの感覚のことも忘れることができた。
 彼がこれほど真剣に人を好きになったのは初めてだった。これまで恋人がいなかったわけではない。控えめな性格もあって、表立って人気が出るようなことはなかったが、選り好みさえしなければ彼がガールフレンドに困ることはまずなかった。それなりにルックスがよく、家が裕福で、最低限のデリカシーがあったからだろう。彼は同世代の女性たちの視線から、自分がある一定の基準をクリアしていることを実感していた。10代のうちは何度か手痛い失敗をしたものの、好意というものの適切な扱い方さえ学んでしまえば、彼の生理的欲求を拒む女性はいなかった。
 菜々美に対してもそれは同じだった。変わってしまったのはおそらく、秋斗自身の方なのだろう。

 ガラスに映った秋斗の後方に、ウェイト・トレーニング専用の一角が見える。40代前半と思われる屈強な男が、台に仰向けになって重そうなバーベルを持ち上げている。ときおり嗚咽と悲鳴の中間のような掛け声が聴こえる。男がバーベルを定位置に戻すたび、黒いタンクトップのすき間から茶色い乳首が覗く。スピーカーから流れる音楽はいつの間にかコリー・ウォンの「Disco De Lune」に変わっている。
 この時間、秋斗とその男の他には、バイク・マシンに座ってスマートフォンでアイドルの動画を見ている太った男しかいなかった。

 ランニング・マシンのホルダーに掛けたスマートフォンが振動する。しばらくは無視して走り続けようとしたが、呼吸が荒れて手首をサイドガードにぶつけてしまったところで、観念してマシンを止めた。


 「今日はどうもありがとう」覚えたての台詞を暗唱するような口調で菜々美が言った。「素敵なお店だったわ」

 「どういたしまして、気に入ってもらえてよかった」

 耳元のスピーカーから歪んだ海鳴りが聴こえる。秋斗は突堤沿いを歩く菜々美の姿を想像し、その沈黙に耳を澄ませる。きっと彼女は潮風に揺れる藤空木のネックレスを無意識に摩りながら、どう切り出せばいいか考えているのだろう。

 「それと‥‥‥さっきはごめんなさい」

 「謝ることはないですよ。僕のことは都合の良い捌け口だと思ってくれればいい。『王様の耳は驢馬の耳!』ってね」

 「‥‥‥そんな風に言わないで」

 「ねえ、僕は唯華さんじゃないから、月の裏側を透かして何でもわかってあげることはできない。でも、一緒に腹を立てて悪口を言うことはできます。憎んで、罵って、それで世間を呪わずに済むならいくらでも」

 「その捌け口だって、いつかいっぱいになって溢れてしまうんじゃないの」

 「‥‥‥」

 「今から会えない?」

 まるですぐ側にいるみたいに、彼女の息遣いがリアルに感じられた。
 秋斗の記憶が正しければ、今ごろ菜々美は友達と食事に行っている時間のはずだった。予定が流れたのか、もう済んだのか、そもそも予定なんて無かったのか。
 まあいいさ、と秋斗は思う。
 月の裏側を見ることなんてできないし、他人の夢は覗けない。それでも生身の人間である限り、実際に会って確かめることはできる。正体はわからなくとも、その途方もない矛盾を全身に感じて打ちひしがれることはできる。


 ☆☆☆


 ある朝、目覚めると傍らには君がいる。君は昨晩僕が貸したオレンジ色のTシャツを着ている。君の胸の上で、キッチュな飛行帽をかぶったスヌーピーのプリントが、浮き上がったり、沈んだりする。僕はこの時間がずっと続けばいいのにと思う。枕元にあった『地球の長い午後』を手に取り、しおりを抜いてぱらぱらとページをめくる。しかしもちろん何かに意識を集中することなんてできない。

 5分か、10分か、それくらいのあいだ読書を試みて、あきらめて本を枕元に置く。物音をたてないように慎重にベッドを抜け出し、流し台の蛇口をひねってコップに2杯立て続けに水を飲む。それからトイレに行って長い小便をする。洗面台の鏡に映った自分の顔をいろんな角度から眺め(大丈夫、それほどひどい顔じゃないさ)、シェービングクリームを口の周りと顎に伸ばし、T字のカミソリで丁寧にひげをそる。顔を洗い、歯を磨き、化粧水を顔全体になじませる。

 部屋に戻ってもまだ君は規則正しい寝息をたてて眠っている。僕はベッドの脇に立って、どうしたものかしばらく迷ったけど、起こすのはやめにして再びベッドにもぐりこむ。

 ぼんやりと部屋を照らす柔らかな朝の日差しの中、小鳥の囀りを聞きながら、夢から醒めた君に最初にかけるべき言葉を考える。

 お伽話は終わらない。


1へ続く

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