誰かに語りかけないこと
忘れられるはずのある白紙に自分の頭に泳ぐ幼い頃の木漏れ日、消費期限の切れたあんぱんへの悲しい想い、2週間前にあのあまり面白くなかった小説の浅い感想を書くこと。
その行動に意味があるのか、といざ脳裏で生まれたから私と一緒にいる声が問いかける。でも日記に書くことは結局そのことではないか。ボロボロになりかけた白紙にせよロフトで買った美麗なノートにせよ誰にも語らないでただそこで自分の欠片を頭の語彙を絞り出しながら書く。
もしかして未来の私は今の私とあたかも赤の他人になろうとも、結局のところ、少なくとも、私であってしまうから果たしてそれは誰かに語りかけるという式に当てはまるのでしょう。
おそらくこの場所を誰もが訪れないだろうという前提で今22時に書いている。もちろん誰かがこれを読んでくれれば幸いけれど、読まれる薄い希望をヒキダシに入れ、結局誰にも語っていないけれど実際にそうでもないという曖昧な空間で書く習慣が私を襲うことも願っている。
16歳ぐらいからスペイン語で日記を書く習慣があるけれど、日本語で書きたくて書きたくて仕方ないことも認めざるを得ない。何度も挑戦したけど結局その文章が私から勝手に離れていく感じがし、絶望したこともある。だからそれももう一つの理由である。
ここで私の日本語を築きたい。なぜかよく理解できないけれどただのワードファイルでじゃあ、気がすまないことに気づいた。そのワードファイルが寂しく見えて消したくなってしまう(そのファイルたちを一ども削除したことがないけれど)。ここで何でもいいから自分が持っている貧しい日本語の語彙力と文章力で何かを語りたいと今日決心した。
実は、その決心が甘かった。