立ち食いそば
立ち食いそばが好きだ。
サッと食券を渡し、サッとそばを受け取り、サッと食べ、サッと店を去る。
発する言葉は「そばでお願いします」「ごちそうさまです」のみ。
美しい。まったく無駄がない。
世界で最も洗練された飲食サービスではないかと思う。
味にはこだわらない。
食べログやGoogleの口コミなんかでは
「出汁の風味が鼻を抜ける」「麺の触感がいい」なんて感想があるが、
鼻と舌が馬鹿になってるので、僕にはわからない。
(それはそれとして有名店に行くと、やはりおいしい)
よく行くのは、自宅か打ち合わせ先の最寄り駅周辺にある店だ。
駅があれば、大体そこには立ち食いそば屋がある。
食べるタイミングは、打ち合わせ前が多い。
注文はもっぱら、王道の天玉そばである。
玉子が絡んだ麵をすすり、ぐずぐずになったかき揚げを頬張る。
噛みしめるたび、麺とかき揚げが己の肉となっていくのがわかる。
そして最後は、かき揚げが溶けて油っぽくなったツユを飲み干す。
ツユは血となり、全身をかけめぐっていく。
水を一口飲み、店を出るころには、気合がみなぎっている。
弾丸をこめなければ、ガンマンは決闘ができないように
天玉そばを食べなければ、僕は打ち合わせにのぞめない。
イーストウッドとなり、戦うために立ち食いそば屋がある。
帰りの一杯もいい。
行きとは違い、闘争心ではなく幸せを与えてくれる。
このとき注文するのは、コロッケそばだ。
ツユの染みたコロッケを嚙みしめると共に、幸福が疲れた心に満ちていく。
僕のハートはコロッケだったのだ。
そうして温まった身体で自転車を漕ぎ、風を切り、家に帰って眠る。
確かに自分は生きていると感じられる時間だ。
このためだけに、仕事終わりの食事の誘いを断ることが多々あった。
楽しくもなく、次の仕事につながるわけでもない食事などより、
僕は迷わずハートをコロッケにすることを選ぶ。
コロッケそばなど邪道と思われるかもしれないが、
そうした議論は押井守さんか柳家喬太郎さんとやってください。
僕にとって、立ち食いそばとは「確かにそこにある、小さな幸せ」だ。
そしておびえる魂を苛烈な戦士へと育て、癒してくれる儀式だ。
こういうものを持てることが、豊かな人生につながると僕は信じている。
なんだか面白みのない日記になってしまった。
そこで次回は「会話が禁止されてるサウナでしゃべり続ける若者」について
田原総一朗さん、三浦瑠麗さん、東浩紀を招いて討論したいと思います。
来てくれるかな~。来るわけねーか!