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3分で読める短編小説集・第1話「誕生まで私は」

第1話「誕生まで私は」

上がったと思った雨が、また姿を現し、街を包み始めた。亜沙(あさ)は、そろそろ髪を切らなければなどと考えを巡らせていた。
記憶とは儚いものだが、亜沙が両親の顔を思い出せなくなってからもう何年も経つ。その間に彼女は何回髪を切っただろう。それも過ぎた季節をたどるように頼りない。
亜沙はそういうふうに世の中を泳ぐように生きてきた。そして成り行きに任せて生きているうちに、世界は光を失った。
もっとも、光を拒絶したのは亜沙の方だ。決して生きるのが嫌になったわけではない。ただ、自分が世の中の一部として機能しているという事実に違和感を覚えたのだ。
温かいぬるま湯に浸かるような生活は心地よい。私は、私のためだけに存在している。その自由は、何かで代替できるものではない。
暗く、静かなこの空間を、彼女は愛していた。

七月のある日のことだ。「トントン、トントン」突然、ドアを叩く音が響く。その音は静寂を切り裂いて亜沙の脳に直接響いた。
おそらくそれは、もう出発の時間が迫っていることを知らせる音だった。心地良いこの空間に別れを告げることを示唆する音に聞こえた。
嫌だ。まだここに居たい。温かく、暗く静かなこの場所は、私がやっと手に入れた安住の地なのだ。

「トントン」

雨を降らせる空が、音に合わせて光を発し始めた。暗闇が一本の線によって光が差し込む。

次の瞬間、彼女は何者かの手によっていきなり外の世界へ連れ出された。

あっ。

目の前に知らない人々、そして両親が立っていた。

「お帰りなさい」

母の真美が目に映る。その隣には父の凛太がいる。ああ、この人たちはこんな顔だったか。不思議なことに、それは記憶からは想起されなかった。目前にし初めて「知った」と感じたと言った方が正確だった。

亜沙の髪は、まだ温かい液体に濡れ、外の世界と繋がった。

そうか、ああ私は今初めて生まれたのだ。
しかしこの光なら悪くない。

亜沙は産声を高らかにあげ、喜びを表現した。

そうだ、この光なら。

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