境界型パーソナリティー障害なんて存在しないんじゃないか、と言ってみる BPDその6

暴論:境界性パーソナリティー障害なんて存在しない!
 
個人的には、いわゆるボーダー、境界性パーソナリティー障害BPDという個人の精神障害はない、と思っている。
あるのは関係性の病、ボーダーライン状態。
あくまで状態像。

何故って、
BPD者は一人だけでいたら、病的にはならないから。
もし無人島にいたら、
もし周りがロボットだけなら、
BPDとしての問題行動は起こらない。
BPDは関係性の病であるとは、そういうこと。

BPD者とそれに操作される周りの人、ノンボーダーがいて始めて病的な関係が生まれ、問題行動が起きてくる

でも、実際には周りに人がいない。なんてことはないわけで、
BPD者は次々とターゲットになるノンボーダーを変えて問題行動が続いていく、のだけれど。

操作もすべて異常ではない


ボーダーラインに気づく手がかりはその操作性、と主張してきた。
もちろんボーダーライン状態だとしてもそれは変わらない。
でも、操作って何かと言ったら、
人の惻隠の情、弱った人を放っておけないという慈悲の情を引き出し、
それを利用するということ。
普通に言えば、「甘え」。
親しい人に甘えるのは別に病的な事ではない。
高熱を出して寝込んでいるような時には、誰だって目が潤んで「助けてー」とすがる行動が出る。
これは甘え、であるし操作である。
つまり、
操作とは弱った時の人のサガ。
だれでもボーダーライン的な言動をすることはあるし、
不適切に甘やかされれば、ボーダーライン状態の関係性になることはありうる。

BPD者はその操作の使い方が不適切だったり、範囲が不適切だったり、それを利用することに慣れ切ってしまっていたりするということ。

お酒を飲んで酔っ払うことはおかしくはないけれど、
酒を飲まずにいられなかったり、量が過ぎてしまったりしたら問題になるのと似てる、かしら。

”ボーダーライン状態”と考える理由


では何でボーダーラインはいない、ボーダーライン状態でしかない
と言った方がいいかと言うと
ボーダーライン状態、であれば状態像なので変化するものだから。
変化する、とは治る、良くなる、ということ。

ボーダーラインは良くなる。

弁証法的精神分析だとか、
自然経過だとか、
成長だとか、
なんでもいいけれども、ボーダーラインは良くなる。
人によったら治るというかもしれない。

いわゆる一般の人が考える、治療がいらなくなるということとは違うのかもしれないし、
うつ病だとかで言われるような寛解状態ともまた違うけれども、
問題行動が起こらなくなる状態、
起きても大問題とはなりにくくなる。
それはボーダーラインにとっては良くなる、治るということ

良くなる、とは変化するということ


そして、治るためにはそれが変化するものだということが大前提。

パーソナリティ障害と名付けられた途端に、
どうしても変化しようがないもののようにみなされてしまう。
そうラベリングすることで変化の邪魔をしてしまう。

だから私はボーダーラインパーソナリティというものは存在しない、
あるのはそう診断されるような状態、
すなわちボーダーライン状態でしかない。

それが治療のために診立てるということ。

「この人はボーダーなんだな、境界性パーソナリティー障害なんだな」
ではなく、
「この人はボーダーライン状態にあるんだな」
「そんなある意味で不器用なやり方しか知らないから、きっと苦しいんだろうな」
と捉えること、
そんなボーダーライン状態をちょっと離れた視点から見ることが治療の第一歩、なのです。

”ボーダーライン状態”の診立ては必要なの?

 
では、ボーダーライン状態という状態像診断をつけることの意味は何か
これはひとえにボーダーライン状態というものがあると認識せずに、
無防備にBPD者に接するとその操作に振り回されて、取り込まれてしまうから。

まず相手の操作性にちゃんと気づくこと、
無自覚に操作に取り込まれないようにすること。
それでもエスカレートしてしまう時には、
みんなで生暖かく、ボーダーラインシフトで接すること。
そうして相手のボーダーライン状態を炎上させないようにすること。

これが医療者であったり、支援職であるために必要なことだと考えている。
だから、ボーダーライン状態という極限の状態があるということについては理解しておく必要があるし、
操作的言動には敏感でいなくてはならない。

何故なら、ボーダーラインは医原性に悪化するから。
ヒポクラテスの誓いを持ち出すまでもなく、
悪くしないことは、治療の基本。
なので、BPD者の操作に敏感に気づくことは医療者には必須のことになる。
医療者とBPDについてはまた別の機会に。



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