いわゆる専門家とどう付き合うか
現代の社会では、どんな分野においても、その道の専門家の意見を聞かないと分からないことが多い。
だが、ここで困るのは専門家の意見が大抵一致しないことであって、誰の意見を聞けばよいのかということになる。
私たちの眼力が試されることになるのだ。
では、私たちの眼力をどう鍛えればいいのかということだが、具体的な例を通して考えてみよう。
福島原子力発電所が東北大震災の津波によって非常用電源まで浸水して崩壊したことは記憶に新しい。
この津波の危険については、地震学の研究者から既に指摘されており、
東北電力と日本原子力発電は相応の対策を講じたのに、東京電力は、その
措置を怠った。
1,000年に一度の大津波など、どうせ自分が生きているうちには起こるわけないだろうと東京電力は考えたのかも知れないが、では、東北電力と日本原電の2社は、何故、対策を講じたのだろう。
それは、確かに1,000年に一度という確率は、我々の普通の時間の感覚から
すれば途方もないというかピンとこない時間の長さかも知れないが、
他方で、原子力発電の扱っている世界は、放射性廃棄物の半減期が20,000年という、はるかに途方もない期間であり、その長い期間、放射性廃棄物を
安全に管理する責任がある以上は、1,000年も当然視野に収めるべき時間だ、ということなのだろう。
つまり、半減期20,000年という途轍もない期間、管理する責任があると
いうことを、どれだけ真剣に受け止めているかによって判断が分かれたのではないかと想像できるのである。
このようなことを言うと、後付けで非難しているという批判が出てくる
ことがよくあるので、念のために書いておくと、ここでの議論の前提にあるのは、第一に、人を死に至らしめ、地域を人の住めない廃墟にして共同体を破壊してしまう放射能の怖ろしさであり、第二に、半分になるのが20,000年という時間の長さ、それを遡るとネアンデルタール人の世界にまで遡ってしまうという長さである。
その長さは、私たちの社会のスケールを超えていると言わざるを得ない。
原子力に詳しい人間ほど、その管理の難しさを熟知していたはずなので
あって、自分が死んだ後のことは知らないよで済ましていい話ではないだろう。現に、東北電力と日本原電は、対策を講じているのである。
ここに書いたのは、津波が起こる前の段階での判断の違いについてであるが、次に、原発の崩壊が起きた後の判断の違いについて見てみよう。
原発事故が起きた直後に、原発の開発から撤退することを即座に表明したのはイスラエルであり、少し遅れてドイツだった。
イスラエルの場合は、軍事的考慮という側面が強いらしいが、ドイツの取り組みが示唆に富む。
メルケル首相は、各界の識者からなる倫理委員会を設置し、原発のあり方について短期間で結論を出すよう要請した。
メルケル首相自身は、原発の推進論者であったにも拘わらず、倫理委員会の提言によって、原発からの撤退を決定した。提言の要点は、放射性廃棄物を後代まで残す原子力政策は倫理的ではないということである。
一方、当事国である日本では、どんな議論が行われたろう。その上、根拠の曖昧なエネルギー不足に対処するためという理由で、既存の原発の稼働年数の延長まで決定されてしまった。
これは、福島のような大事故がまた起こっても構わないと言っているのに等しい。
肝腎なことは、福島原発の事故という空前の大惨事を起こしてしまったという決定的な事実をどのように受け止めるかということである。震災の前の予想の段階ではなく、事故が起きてしまったという厳然たる事実を踏まえて、どう対応するかという話である。
震災直後は活発な気配のあったエネルギー政策の議論も、いつの間にか尻すぼみになってしまい、現状維持で停滞しているが、世界では、再生可能エネルギーへの転換がめざましい勢いで進んでいる。
日本では、内故、このように寒々しい状況なのか。
原子力村という言葉に象徴されるように、国、電力業界、産業界、学会等による利害構造が全てを牛耳り、その中に入った人間は、出世や金のために思考停止になってしまうのか。
だが、大勢はこのようであるとしても、原子力政策の問題点、既存の原発の安全管理の実態、エネルギー政策の転換等について、地道に啓発している専門家がいる。
その人たちに概して感じられるのは、事実を直視する姿勢であり、内に閉じこもらずに、技術のあり方を社会との関連で捉えるという姿勢である。
そして、その佇まいは、自由を感じさせる。
専門家とは何か。それは、専門的知識、専門的技術に加え、専門職としての倫理を持つ者のことであると考えるなら、このように、自分自身の良心に従い、技術を社会との関連で捉えるために踏ん張っている姿勢こそ、専門家としての倫理にふさわしい態度と言えるのではないか。
つまりは、こういう専門家を選び取り、対話を通して私たち自身の知見を深めていくことが、眼力を鍛えることになるのではないかと思うのである。