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《小説・昭和40年代風に》シュークリームと未完成
1 キラキラ!
「ねえ、知ってた? アスファルト、ってねぇ、」
「地面の? 舗装の?」
「うん。アスファルトってねぇ、星が光るんだよ。星、ほんとの星みたいに、キラキラって。でもね、ちょっと目を動かすと、すぐに光ってるとこが動いちゃう。それも、いっせいに。だからね、光ったり消えたり、すっごくめまぐるしい。ああ、今度はこっち、あ、こんどはあそこ、あ、ここ、ほら、あっちもって。それがものすごい数でさぁ。――ねえ、何が光るんだと思う? 知りたくなるよね? だから、しゃがんで、……今そこに、光っているのを消さないように目の位置を調節しながらね、ゆっくりしゃがんで、それからアスファルトに指をおいて、どこかな、って探してみるんだけど、全然だめ、キラキラがどこから来てるのか、どうしても確かめられない。」
シューコはそれこそ星のように目と頬を輝かせ、ミルクとクリームと茶色いものが大理石模様のように混ざった飲み物のストローを咥えて、笑う。秋だから、オープンテラスのカフェの日だまりが心地よい。
「そりゃあ、ただの交通事故かなんかのあとじゃないの? ガラスが散ってたんだろ? よく見るじゃないか。」
「ううん。」とストローを咥えたまま、シューコは激しく首を振る。「そのくらいわたしだって、ちゃんと調査した。えらいでしょ。だって、ガラスのかけらだったら指で触れるでしょ? でも、そんなものなかった。それによ、わざわざバス停一つ分、歩いてみたのね、そしたら星は、ずっと続いてるの、どこまでも。事故の跡なんかじゃないよ。アスファルトの一部の問題でもなくて、アスファルトの全体なんだよ。――単純に考えれば、こうよね、アスファルトの中にはものすごく細かいガラスの粒が含まれている、ってこと、たぶん。真上からの光を受けて、そのものすごく小さな破片がキラッと強い光を放って、自分はそこにあるんだよ、って伝えてくる、でも、それは見えたり見えなかったり、……だって、ほんのちょっと目の位置とか、頭の位置とかをずらせば、……ううん、それだけじゃないの、片目をつぶったりしてもね、見えてたのに見えなくなるし、そうかと思えば、また他のが見えて来ちゃうの、あ、ここ、あ、あっち、ほらって。なんかね、それがものすごくきれいだった。どこに目を向けても、必ず光る星はある、消えて、また見えて、なんか、わっ、って。わぁ、なんだよ。」
「そうなんだ。」
シューコは左手でグラスを支え、螺旋状に大理石模様を描く飲み物と格闘している。
「ママ、ママ。わたし、これ。」
母親を追って、つまらなさそうに目だけキョロキョロさせながら、僕たちのテーブルの脇を通り抜ける幼子が、シューコのグラスに小さな人差し指を伸ばして来た。それが触りそうになって、とっさにグラスをかばったシューコの動きがあまりにも素早く、僕は思わず笑った。
「オレ、シュークリーム。」
二人に追いつこうと店に飛び込んできたサッカー日本代表レプリカシャツの小さなお兄ちゃんが、僕の座っているアルミの椅子に足を引っかけた。軽くつんのめった彼の、驚いたような顔と目が合い、
「大丈夫?」思わず声をかけた。
「ごめんなさい。」と返って来た不快そうな反応は、振り返った母親だった。ひどく若い。細い。びっくりするほどのおしゃれ。とっさに二人の子供の手を取る振る舞いは、乱暴だ。あっという間に二人を捕まえ、店の奥に引きずって姿を消した。
「で、それが、どうしたの?」
僕は話を戻したつもりだった。シューコの目と口が同時にぽっかり開いて、僕を見つめてくる。
「続きがあるんだろう? その話には。」
「ああ、そういうこと。ううん、ない。そんだけだよ。おしまい。アスファルトの中には無数の星がありました。おしまい。あぁーあ、だよ。――何時になった?」
時計がないなら、テーブルにのせてあるスマホを見ればいいのに、訊いて来る。僕はポケットから自分のスマホを出して、時刻を表示させた。
「3時12分。」
「ヤバ。行かなくちゃ。今日は遅れられないんだ。XXテレビ。ドラマのオーディション。台詞ひとつの売り子なんだけど、それだって大事よね。じゃあね、バイバイ、またね。ごちそうさま。」どんなちょい役でも、劇団の取り分の決まりは融通が利かないのだと聞いている。
シューコはすっ飛んでいった。自由が丘の賑やかな通りのカフェだったから、あっという間に信号の角を駅の方に曲がって見えなくなった。オーディションうまく行くといい。シューコの消えた街角の信号が、また変わった。大勢の人が歩き出す。――アスファルトの星、……。目を動かすと、いっぱい消えて、いっぱい増えて……。 いつか僕も目にするのだろうか? 店の前のアスファルトに目をこらしてみても、もちろん僕の目にそんなものは見えはしなかった。
2 シューコは
***
シューコのいる劇団の主催者、演出家にして劇作家・駒田コージが、僕の大学の時からの友人だ。入学直後に参加した学生サークル劇団を、あれよあれよという間に組織し直して、二年の終わり頃には、演劇雑誌などが無視できない劇団にしてしまった。その辺のいきさつはあまり深く聞いたことがない。僕にとっての彼は、語学クラスや体育の授業が一緒の級友で、たいてい隣同士で授業を受けていたという間柄。関西出身の彼はマンションのひとり暮らし、僕は親の家からの通学だったが、よく行き来して、議論に夢中になって夜明かしなんかしたけれど、演劇の話はあまりしなかった。もっぱらランボーとかフロベールとか、時代遅れの文芸の話ばかりだった。その頃から十年以上経つ。彼は起業的な才覚ばかりではなく、それを維持する能力にも長けていたようで、学校は途中でやめてしまったが、劇団の方は名称も変え、今ではバカ有名ではないにしても、劇界では中堅と言っていいような位置を築いている。もう、学生時代のような親交は結んでいないが、彼の出発の時代に、劇界ではないところにいた友人、というのが彼には何かの拠り所になるらしく、年に数回会ってとりとめのない雑談をする交友だった。大学と、大学院を引き延ばせるだけ在籍して、つい先年非常勤の講師になった僕を、舞台を観に足を運ぶ折には、まるで信頼に足るコンサルタントか何かのように遇してくれることもあるが、それは演劇素人の僕には、ややこそばゆい。お互い独身というところも、この付き合いには与っているのだろう、と僕は感じている。
一昨年、とある文芸誌に僕の評論が掲載されたとき、準備ができ次第演劇批評誌を創刊しようかという話が僕たちの間に持ち上がり、真剣にひと役買わせられる運びになりかけた。ま、結局立ち消えになったそれはそれ。その時に稽古場近くの彼らの行きつけのコーヒー店(もちろん、はじめの頃はそれも転々と移っていて、今のに落ち着いたのは四、五年前だ)に頻繁に呼ばれているうちに、それまでは公演でしか会わなかった団員の顔見知りも増えて、シューコは、その演出の我が友の、どこかペットみたいだ、と打ち上げの場などで、なんとなく思わせられた女の子だった。年は見かけよりは上で、たしか今年23だったはず。その日は、九月末の地方公演の時のお土産、富山の白エビ煎餅を、自由が丘ならついでだからと、彼に代わって届けてくれたのだった。
彼女は、基本、誰とでもタメ口だ。おかげで春の公演の時にゲスト出演したそこそこ名の通った年配の女優から、打ち上げの場で平手打ちを食っていた。僕もその宴に呼ばれていて少しびっくりしたが、みんな普通のことのように受け止めていたのには、いささか驚かされた。お酒の席、ということなのだろうか。「でもね、」といつかそのことを、溜まり場の店のカウンターで隣にいたシューコに振ってみたら、「女優は誰にでも可愛がられないとダメよね。だから、これでいいの。確率が高いもの。仲良くなれる。」
見かけはそこそこ可愛らしい。そこそこの意味は、二、三歳までの人なつこい幼児の愛らしさを、ハタチを超えた今の年齢風にアレンジしてではあるけれど保っている、ということ。アピールが仕事、と本人が言うだけあって、着るもののアイデア、工夫は、色使いを筆頭になかなか人目を引く。ただ昨今の、季節ごとに雑誌が大々的に騒ぎ立てる流行を、めざましく決めるという感じではないから、その分、取れる仕事には偏りが出そうだ。
シューコを最もシューコにしているのは、しかし服装ではない。なんといってもその喋り方だ。劇団員の集うコーヒー店(マスターは、いつもパイプを咥えた初老の男だが、――そのパイプに火のついているのを見たことはまだ一、二度しかない――、店にいると聞こえてくる我が友人との話から、マスターが昔は演劇人だったこともいつしか僕に伝わっている)、その店で、彼女が劇団員と話しているのはよく見かけるのだが、その喋り方は相手によってすっかり別人のようになるのだった。丁寧とか乱暴とかそういう使い分けのことではなくて、声の出し方、……そう、たとえばネイティブな英語を話す人間たちと日本語を話す我々とでは、言語に伴う声の出し方がまるで違うように、ちょうどそのくらい、彼女は一人の中で、母国語に多くの声の出し方を持っていた。「動かないでね。私、取れるから、大丈夫。そう、いい子ね、じっと、じーっとよ。そうやってて。」とマスターに目を閉じさせて、まぶたの端についてるらしいゴミを、細い指先をこするように動かして取り除く。「はい。取れました。」なんだか声だけ聞いているとマスターの姉ででもあるかのようなこんな感じは、マスターに向けるのしか僕は耳にしたことがない。声は、柔らかい手袋のように、彼女の指先となった。
「おお、来た、来た。」と、しばらく入院していた劇団最年長(僕らより十五、六以上年上のはずだ)の役者の帰還を迎えた夏前のある日の稽古場、「それで、肝臓はちゃんと元通りなのか? コーラ漬けで死んだ奴のこと、あれほど言ったのに。三食カップヌードルなんてむちゃくちゃだよ。 ……ダメだよ、何やってんの。禁煙、禁煙だよ。もう死ぬなよ。」
シューコの声から発せられる言葉は、使いこなす道具ではなくなって、身体そのもののように弾けた。たぶん、彼女はこんな変節の特技に、気づいていない。不思議な気もするが、これで普通のことだと思っているらしい節がある。そして多くの時、我が友人は(例えば稽古の前に演劇談義風に雑談などしている時とか、まるで指定席のように隣に座らせて)シューコのそんな振る舞いを、小さな子供を見守るような笑顔で眺めているのだった。そのシューコが、いつかこんなことをぽつりと言った。「コージさんにはね、ちゃんと恋人いるんだよ。私たちの誰も知らないけど。誰も、一度も会ったことないけれど。私、知ってるの。」
僕には、彼にそういう人がいるとは、影すらも感じさせられたことがない。たしかに、いてもおかしくはない――。
3 兄の骨折
***
自由が丘でシューコと会ってから二十日ほど経った十月の半ば、義姉から兄が骨折して入院したとメールが飛び込んで、見舞いに行って来た。東京の西を限る県境の山々がすぐ近くに見える病院だった。その帰るさ、アスファルトの星、……というより、アスファルトに二重に重なる宇宙空間の広がりが、僕の目にも見えてしまったのだった。そのとき僕は、病院前のバス停に立っていた。少し傾きかけた太陽が、まるで戻って来た夏のようにその日だけきつく照り返す午後。最初に気づいたのは、目を射る鋭い光だった。とても小さな、けれどとても強い光。何だろう? と意識を呼び集めて、ギラつく車道のアスファルトを見つめ返した。すると小さなその鋭い光は、ひとつではなく、そこかしこに、けれど、どれ一つとして同じ明るさはなく、かすかなこちらの人体の揺れに応じて、めまぐるしく変化して光っている。目の届く限り散らばっているその光のちらつきに目を奪われながら、シューコが言っていたのはこれだ、と思った。その途端だった。絶えず変化するその小さな光の散らばりに目を向けているうちに、変化してやまない光だけが見えているかのような錯覚が来た。まるで闇の中に光だけ浮かんでいるようで、残余のものが消えた。あれよあれよという間に宇宙空間のような奥行きと厚みが僕の網膜を埋め尽くした。というより、そういう視覚経験のモードにスイッチが入った。ちょうど3Dの画像用の眼鏡をつけて、2次元が立体に変わる瞬間の視覚とか、あるいは、並んだ二枚の、ほんの少しだけズレている絵を、右目で右、左目で左、両方が一緒にならないように別々に見ていると、ある瞬間その二枚が一枚の立体に見え出す、あんな感じだと言えばいいのだろうか? しかもそれが、何の変哲もないアスファルトの舗道で起こるなんて! まるで児童書によくある、あのタンスの背後から別世界に移動するような、そんなことがこの舗道で今にも起こるんじゃないか、なんて埒もないことをふと空想した。奇妙だとは少しも感じなかった。
稽古を見に来てくれないか、と我が友が誘って来たのは、まもなく十二月の声が届きそうな日のことだった。新しい公演の舞台に迷いが来ている時の彼の、常の誘いだった。行くよ、いつがいい? すると、明日はどうだ? とせっついて来た。非常勤の授業が5時半まであるから、その後になるな、それで時間が合えばと告げた。じゃ、明後日は? それだと早いよ。おまえに起きられるか? 早いって、何時さ? 11時。OK。 ――稽古場の、まるでどこかの学校から払い下げられた教壇をつなげたみたいな簡素な舞台を、少し眠い目を擦りながら、友人の隣に座って見た。通し稽古だった。役者の動きに合わせて埃が舞い、板のきしむ音が響くいつものこの雰囲気が僕は嫌いではない。
新機軸は何もなかったけれど、劇界に定評を積み上げて来た彼のいつもの水準は備わっているように思えたから、客もちゃんと来るだろうし、批評だって妥当なものが来るだろう、そう伝えるつもりだった。それを言っても、彼の不安は払拭されないだろうけれど。結局一度のダメだしもなく稽古が終わる。ロージナで待っているよ、とたまり場の名を告げて、一足早く出た。気持ちよく晴れ上がった空から、風が吹き抜けてゆく。
シューコが店を手伝っていた。それは別にそう珍しいことではない。オーダーを取りに来る。
「みんな、稽古中だから、向こうにいますよ。」
「うん、見て来たとこ。終わったから先に来たんだ。」シューコにしては、まともすぎる喋り方だ、と思ったが、バイト中の気まぐれだろうと思った。
「そういえば、あのアスファルトの星ね、あれさ……」
「はい?」
「ほら、ひと月くらい前に、自由が丘で、」
「……自由が丘で? ああ、コージさんの用事の?」
「そう、アスファルトに星が見えるって。 ――忘れた? それが、俺にも見えた。ほんとだった。」
「ごめんなさい。ちょっとわかんない。何の話ですか?」
そう聞いた瞬間、これはすぐに打ち切った方がいいと感じた。
「ごめん。勘違いだ。コーヒーを。」
シューコはカウンターに戻り、見かけない顔の若い少年にオーダーを通した。
演出の彼は、何やかや忙しいと見えて、しばらく立ってから顔を見せたが、ちょっと今日は話す時間が取れそうにない、また今度な。今日はありがとう、と去って行った。特に思いつくこともないが、またメールするよ。おまえの水準の仕上がりだと思う、とそれだけ告げて、手を振り合って分かれた。
ぼんやりと窓の外に目を放つ。舗道に沿ったトウカエデの並木の枯れかけた薄緑の梢が、陽光を浴びてチラチラする。カウンターの方からシューコの笑い声が聞こえる。時折、顔見知りの劇団員が通りかかり、僕は軽い会釈の応酬をする。軽く目を閉じると、アスファルトの夜空が、まるでついさっき見たばかりのようにまぶたの奥に開けた。
勘定書きの紙切れをつかんで立ち上がった。コインレジスターを操作するシューコに現金を渡して店を出た。「ありがとうございます。」新しいシューコが、また一人生まれたんだ……、と思った。
4 ふーん、そーなんだ
舗道を、とにかく駅の方に向かった。自分が妙な状態にいるのを感じる。――何か、こう、風が体の組織の隅々までを骨組みだけに変えてしまい、自分で自分の実体を感じられないといった感覚。軽くて、薄くて、フワフワッとした何か。そういえば、カウンターに置かれたガラスケースの中に、今日は見慣れないシュークリームが、いつものチョコレート・ケーキの隣に置いてあった。マスターの永年の恋人ケーコさんの手作りだ、おそらく。結婚は絶対にしないという宣言を、どちらもけして取り消さない老いたる恋人、か。我が友人がいつかそんなふうに言っていた。
何が起こったのかと言えば、シューコとのさっきの会話しかなかった、別に話したくないなら、それでかまわないのに。アスファルトの光――。しかし、歩きながら目を路上に注いでも、アスファルトは静まりかえっている。
***
兄の病院にでも行ってみようか。ぽっかり空いた午後、やらなければならないことはいくつかあるけれど、気が乗らない。起こったことは、たいしたことじゃない。それは分かっている。ただそこから引き起こされた自分の状態が、自分につかみきれないというだけのこと、それだけのことだ。渋谷に出て、西の町を目指して電車に乗った。
兄の病室は明るい個室だ。近くに見える山々は、緑が青みを帯びて冴々としている。窓辺に立つと、すぐ下を高速道路が走るのだけれど、分厚いガラスのおかげで音は侵入してこない。
「駐車場、見えるだろ?」
「ああ、」
「車、どのくらい埋まってる?」
兄に訊かれて、ガラスに顔を近づけ、下を覗き込む。
「見える限りは、ほぼ満杯だけど。」
「一日の稼ぎ、100万だって。その駐車場。」
「100万?」
「看護士が言ってた。」
僕が病室に着いたとき、兄は歩行補助器を使って、廊下を一周して来たところで、髪をかすかに染めた、顔の小さな女の子の看護士にベッドに戻るのを支えられていた。兄の声はまだ力なかったが、それでも手術前とはやはり大分違って、体中の筋肉が骨をしっかりと包み始めている感じが、横たわった姿勢からも感じられた。
「そうだろう? 手術の後、最初に理学療法士がやって来て起こされた時なんか、まったく動かなかった。足だけじゃなくて、体中全部、動かそうとしてもピクリともしない。大げさに聞こえるだろうけれど、……実際大げさなんだけど、感覚的には誇張はないよ。」
多分、声もあの時は弱った筋肉の声だったのだろう。回復期の活力だ。――慣れた会話。兄と話すのは、ふだんはそれほど多くない。兄が先に口を切る。こっちが応じる。すると次が来る。――ただ、そういうことの起こる話題だけが、僕と兄との間には発生し続ける。それが歴史だ。駐車場、100万の売り上げ……。我らにとって得体の知れない両親のことを話すこともあるが、お互いが気まずくなったり、言葉が滞ったりするアプローチは、しない。
つきまとうのは、何かが違うという感触。子供の頃から必ずつきまとう感触。喋っていると、潮を感じる。そろそろ、という囁き。
「また来るよ。リハビリ、無理は禁物。」
病院の玄関前に着いたバスから、兄嫁が降りて来た。二言三言交わして、折り返すそのバスに乗り込んだ。兄嫁は、小さな出版社から委託された編集の請負を仕事にしている。もう中学生の二人の息子たちは放っておける。時間が自由になるらしいことが、言わず語らずに伝わって来る。
バスが走り出し、病院の建物の陰から外れると、窓に差し込む傾きかけた午後の光に包まれた。ふっとひとつの思いが、うっかりどこかに置き忘れた傘か何かが追いかけて来たかのように、僕の脳裏を訪れる。――今夜、というか明け方になったらだが、久しぶりにイタリアの父親に電話してみよう。ローマの何とかいう大学(いつまで経ってもその名を覚えられない)の数学の教師になったのはおよそ十年前、僕が大学に入った年だ。それから三年して、今度は母親が、それまでちょこちょこ短期滞在していたドイツの音大に職を得た。みんな離ればなれだが、だからといって、今の日常、どうということは何もないが、そういうふたりの息子として人間を始めたという感覚は、行住坐臥片時も身から離れず、身体に平衡を取っている感じだ。「やあ、元気かい?」遠い異国だというのに、すぐそこにいるかのような響きが聞こえてくる電話には、いつも驚かされる。取り澄ましたその声は、こう言うのだ。「それで、今日の用事は何かな?」――そうだ、それより、明日、役所に行ってこよう。あの二人の戸籍が、本当のところ今どうなっているのか、僕は、そして兄も多分、知らない。
「ここ、すわる。ここ。」
幾つ目かのバスストップで乗って来た若い母親が、パスモだかスイカだかをバッグに探って手間取る。
「だめ。ちっちゃい子は、そのお席、だめなの。うしろ、行こ。」
運転手のすぐ後ろに前輪をよけて高く設けられた一人がけの座席を、男の子は名残惜しそうに幾度も返り見する。まるでそうやっていれば、やがて手に入るとでもいうかのように。「いっとう後ろ、あいてるよ。先に行って席取って」母親の声に追い立てられて、通路を走り出した。前乗りバスの、彼が諦めたのとは反対側、左サイドの一人がけの席に、僕は座っていたのだった。
発車したバスの、執拗なローギアのうなり音がうるさくて、目を閉じた。すると、子供の頃の、いつも浮かぶ光景が目交いに甦る。――僕は壁を背に、うずくまって床の上。左の肩が掃き出し窓の大きなガラスに触れ、首をねじると、見えるのは雨だ。ぬれた庭の植物。僕が名を知っているのは、いっとう奥の、コンクリートの塀に接した大きな木の根方のヤツデだけだ。他の植木の名は分からない。分からないという感じが、その頃の僕には植物の名そのもののように思えた(今だに、身体の中にそれがそのまま残っている)。雨は土を濡らす。雨が降ると、土は黒々としたものに変わって行く。父と母とが並んでソファでテレビを見ている。大きな音が部屋中に響いて、時々ふたりに目をやると、テレビ画面の中を、黒い服を着た西洋人の大きな顔が、手にした細い棒とともに激しく動き回っている。カメラが遠景に引かれると、落ち着きのない黒い背中が映し出され、その向こうに、楽器を手に椅子に腰掛けた大勢の人たちが扇形に広がった。兄は食卓のテーブルだ。工作をしているのだ。それは分かるけれど、何を作っているのかは、僕には分からない。誰も喋らない。誰も誰の方をも、向かない。通いのお手伝いさんのスミコさんが、いつの間にか買い込んで来てくれた食料を、レジ袋から出して冷蔵庫に仕舞っている。姿は見えないけれど、物音がそう告げている。それだけ。
雨の雫。軒から落ちる。ひとつ、二つ、そして三つ。それから、またひとつ。それだけ。
5 エピローグ
***
無性に歩きたくなった。停留所の案内をする車内の音声に、とっさに反応してブザーを押した。バスの終点のJRの駅の、三つほど手前だったと思うが、たしかではない。知らない街は新鮮だ。知らない建物の間をぼんやりと歩く。ほどなく低いビル街の区画に入った。建物が一つ切れたところに、水色の金網を巡らせた空き地があった。ブルーシートに覆われて、足場を組むような鉄パイプが隅の方に置かれている。一本向こう側の通りに面したビルの裏手が見える。ビルの壁を伝うように、十数本の配管が整然とした美しい幾何学模様を描いて束ねられていた。これは記憶に刻まれそうだ、と思った。
その目を行く手に戻した時、目の隅が鋭い光を捉えた。それが何かすぐに分かった。首を巡らせると、アスファルトに点在するあの光だ。思わず足を止めた。
人通りの少ない並木の歩道だった。道端に寄って、しゃがんだ。一つの強い光に狙いを定め、光を失わないように頭の位置と目とを調節しながら、そっと指を伸ばしてみた。いかなる突起物にも指は触れない。人差し指の腹で、アスファルトを擦ってみたが、どこに光があったのかも分からなくなった。
「さがしもの?」
光が不意に影って声が降りて来た。僕は驚いて光を遮る人を見上げた。買い物袋を下げた若い奥さんが、頬に笑みを浮かべて軽くかがんでいる。もう片方の手にはスーパーのレジ袋がぶら下がっている。
「え? あぁ、……まあ、」
「ひょっとして、」と言いさして、いよいよ笑顔をはっきりさせて、僕を覗き込む。「光? 小さな、キラキラ?」
僕は驚いて、その人を見る。
「やっぱり、ね。あっちで、見かけて(と、僕を指さす)、ひょっとしたら、そうなんじゃないかなって。――これって、ほんときれいよねぇ。」
その人は、顎でぐるっと円を描いて、塞がっている手の代わりにあたりを示す。
「不思議ですね。」僕は素直にそう答えた。
頬にかすかな笑みを浮かべたまま、その人は何度か軽く頷き、それから間を置かず、別れの合図のように、大きく息をすって頷くと、きびすを返して遠ざかって行った。背を、目で追った。買い物バッグからはみ出している料理雑誌が、歩調に合わせて揺れる。〈焼き菓子を失敗しない十ヶ条 ――パイ・パウンドケーキ・バターケーキ・シュークリーム・タルト〉 きれいにレイアウトされた色の文字。見送っていると、三軒ほど先の店に入ってゆく。看板が、そこが薬の量販店であることを示している。――いったい僕の人生は、いつになったら始まるのだろう? 子供の頃からの最も親しいその感情が、不意に僕を浸してくる。車道に散らばっている無数の星の光は、目を向けると相変わらずあり続けたが、しかしいつの間にかそこから不思議が消えて、ただの輝きになっていた。
そうだ、帰ったら、今日はシュークリームを焼こう。オーブンを温めて。と僕は思った。たしか卵がなかった、どこかで買って行かなければ。