「Hallelujah」でシュレックを思い出した話
この記事を書いている現在、
窓の外を見ると、春の嵐というべき暴風雨が吹き荒れていた。
荒い風と、それに交わる雨粒とに身をさらされていた木の葉がぺったりと窓に張り付いている。ようやくどこかに止まることができたのだろう。
こんな天気の日は家にいることを決め、洋楽を漁っていたとき。
久しぶりに「Hallelujah」を聴いた。
私にとって「Hallelujah」は「シュレック」の挿入歌という印象が強く、
長年触れていなかったシュレックの世界観が一気に蘇ってきたような懐かしさがあった。
シュレックの世界観は架空であっても、幼い私の心をワクワクで膨らませるのに十分な魅力を持っていたのだ。
なんというか、子供は、その場面ごとの背景として写り込んだものの端々をよく覚えており、その記憶の集大成として、原作と似た異なる景色(描写)を頭の中で作り出してしまうのではないか。
実際に私も、映っているはずと記憶していた景色(描写)が劇中に含まれておらず、それが空想であったことを後に知った経験がある。
その世界観を成り立たせる土台さえ掴んでしまえば、劇中視界には映らなかった部分を想像で補うことができたのだろう。
それはきっと、無条件に原作の前提(ファンタジーの世界)を受け入れ、思い切り没入することのできる子供時代にしか作ることができないと思う。
歳を重ねた今では、シュレックを再度見ても、草の揺れる音や風の匂いまで見出せる立体的な世界は新たに生まれない。
そこに浸る体験もできない。
仮にしようとしても、
当時の余韻を追いかけているだけな気がしてならない。
結果的に、その中に内包されていた未知で新鮮なワクワクが新しく心に充満することはないと、知ってしまうのだろうか。
しかし、誰にでもある幼い頃の思い出や大切にしていた世界は、たとえ本人が忘れていても、心の中で不変的なものとして生き続けるはずだ。
「Hallelujah」を聴いた私のように。