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正直さ
こんにちは、いかがお過ごしでしょうか。
近頃思うことについて書きます。
気づくこと
ミーティングを運営したり、12番目のステップを実践しようとしたりする時に、人との関わりの中で必ずと言ってもいいほど自分の弱さ、狡さ、汚さが出ます。何というか、人や物事に関わる時に人はその本性が顕になると言いますか…
一般常識レベルの事務能力の無さや認識の甘さから、人に迷惑をかけていることにも気がつかず、指摘されて初めて目が向く事も多い近頃、こんなことを考えました。
問1)気がつかずにやっている事だから許してほしいという願望は、はたして公平な見方と言えるだろうか。
問1)から考えてみましよう。
気がつかないには理由があるはずです。
まず、人のしている事に目を向けてみようとしていない。
自分の問題として人の苦労を見ることができない事。
つまり、自分のことしか見ていない困ったちゃんということになります。
これは、環境整備その後でも書きました。
書いて少しわかった気になっていましたが、自分の姿が少し見えたくらいでは、人は簡単には変われないということですね。
それをふまえて考えると、「気がつかなかった」は相手に対する免罪符にはならないということです。
悪気があろうがなかろうが、相手が受ける苦しみは同じです。
先日、体調不良で病院に行きました。
コロナとインフルエンザの検査をした時、鼻水が出るのでテッシュを下さいと看護師に頼みました。
すると、その看護師は黙って(めんどくさそうに)一枚だけテッシュ渡したのです。彼に悪気は、なかったのかもしれません。
しかし、病気や何やらで弱っていた僕には、その彼の態度が自分をぞんざいに扱っているように感じ、傷ついたのです。
余裕の無さを他者に押し付けると、人は傷つくという事。
気がつかないことは、気づこうともしていないという心の現れなのだと考えました。
思考と行動や言語は繋がっている事を棚卸しで学びましたね。
問2)気がつかない人と、気がついているがやってしまう人とではどちらが成長しているか。
自分の欠点が分かっても、依然として同じパターンの行動をしていることはよくあります。気づきと行動の変化の間には、何かがあるのです。
今の僕の理解では、「ハイヤーパワーが自分にとっては不都合な現実を通して導く」というある種の介入がなければ、人は変われないのだと考えています。
話が横道にそれてしまいましたね。
問2)を考えていくと、気づいてはいるが同じようなことを繰り返してしまい、それを振り返ることができる人の方が成長しているといえます。
(気がつかないと振り返る事さえできない。)
さて、僕は何故いろんなことに気がつかない、未成熟な人格になってしまったのでしょうか。ある人によると、「自分のやるべき責務から逃げ続けてきた結果」と言われました。
嫌なこと、不快なことから逃げて自分を守る事ばかりに関心を持ち、行動してきた結果、自分さえ守れない人格になってしまいました。(皮肉ですね。)
自分本位で、利己主義、それが私たちの問題のおおもとなのだ。恐れ、自己ぎまん、身勝手、自己れんびん、さまざまなかたちのそうした感情に駆り立てられて、私たちは人の足を踏みつける。相手も踏み返す。時には理由もなしに人に傷つけられることがある。だが実は、過去に私たちが自分勝手な決断をしたために、その結果いま自分が傷つく立場に立たされているということに、いやでも気づかされる。
気づきと自覚の違い
ミーティングで聞く話の中から、気づきをもらったという経験はAAメンバーなら誰でもあるのではないでしょうか。しかし、ここに書いている自覚とはそのようなものではありません。
なぜなら、ミーティングでのメンバーの話はあくまで、「ミーティングの中で話される他者の経験」という想定内の話だからです。
現実の中で、差し迫った事柄はいつも自分の想定を超えています。
それは、今までしてこなかった事に挑戦して、初めて得られる自覚なのです。ここでの自覚とは大抵は惨めで、嫌なものです。
(少なくとも気持ち良くはない。)
ミーティングに通い続けて気づきを積み重ね、やがて、霊的に目覚めるというストーリーは自分の想定内、コントロールできる範囲の中で回復したいという願望の現れでしょう。
(このストーリーが有用であるなら、僕は現在回復しているはずです。)
回復を求めるなら、12番目のステップを地道に続けていくしか無さそうです。
参考文献
AA(2024) 『アルコホーリクス・アノニマス』AA日本出版局訳 ,AA日本ゼネラルサービスオフィス