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書籍紹介 山本芳久 『キリスト教の核心を読む』 NHK出版
皆さんこんにちは。
今回も12ステップの理解に役立つ書籍を紹介します。
書籍情報
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今回もNHK出版の「学びのきほんシリーズ」の本を紹介します。
12ステップとも関連の深い、キリスト教について書かれています。
タイトルはテキストのテーマである「旅人の神学」とあります。
テキストを通して旅人とは誰のことかを一緒に考えていけたらと思います。
著者紹介
著者は哲学の研究者で、キリスト教の信仰を持つ東大教授です。
東大教授と聞くと難しい本ではないかと尻込みしてしまいますね。
でも大丈夫、やさしい文体で書かれているテキストなので途中で放り投げてしまう事はありません。
平易な解説ですが、自分に引き付けて読むと味わい深いものがあります。
書籍、著者情報について詳しくははNHK出版ホームページ参照。
初めに
聖書には、たとえば旅人がたまたま行き合った人を助けるなど、「旅」をめぐるさまざまな物語が描かれています。人生という「旅」における一つひとつの他者との関わりのなかで、他者をどう受け止め、自分をどう受けとめるのかといったことに考えを促す話が、さまざまな形で展開されています。(中略)
哲学書であれ聖書であれ、単に突き放して「客観的に」読むだけではなく、現代という時代を生きている自分が直面している問題とのつながりを見出しながら読んでいくことが大切だと考えています。
人生という「旅」の中で自分の生き方にひきつけてテキストを読むことを勧めています。「旅」には内面の探究、信仰を求める過程、一冊の本を読む中での認識の変化などいろいろな意味で比喩的に使われるコトバですね。
何の信仰もない人生が想像できるだろうか。純粋な理性しか持たずに生きることは人生といえるだろうか。私たちは人生があることを信じた。
そう、信じたのだ。生きていることは、二点を結ぶ最短距離は直線であるという具合に証明できるものではないが、しかし私たちは人生を生きてきたのである。
前置きはこの辺にして、内容に入りましょう。
人間を探し求める神
第一章は旧約聖書についてその成り立ち、文書の構成、3大一神教との関係が解説されています。
著者は旧約聖書の特徴のひとつとして「人間を探し求める神」をあげています。
旧約聖書の大きな特徴は何かというと、人間の側が心の安定を求めて神にすがるというよりは、むしろ神の側が、人間を追い求めてさまざまな出来事を引き起こし、言葉を語りかけてくることだとヘッシェルは言っています。(中略)
旧約聖書では、神と呼ばれる謎めいた何ものかが、人間の方に働きかけてくる。しかし、多くの人間はそんなものの働きかけはむしろ受けたくない。
自分には落ち着いた生活があるのだから、このまま生きていきたいと思っている。そんな人間に神の側が非常に強い促しを与えて、新たな活動をさせていく。神の側が徹底的にイニシアチィブをとり、さまざまな出来事を引き起こし、人間に働きかけていく。
その働きかけにどのように対応するのか、人間には根本的な決断が求められる。これが旧約聖書の世界なのだと言うのです。
「人間を探し求める神」とは人間の願いに応える形で応答する神ではなく。神の方から人間に働きかけてくる存在とも言えそうです。
テキストだけでは何のことだかわかりませんがAAミーティングで時々
「神は現実を通して、私に語りかけているという認識を持つようになった。」といった内容の言葉を聞きます。
今、与えられている現実をどのように受け取るのかを考え、受けきろうと力を尽くす営みの中で、私たちが捉えた在り方を常に超え出て働きかけてくる動的な神の概念が明らかになってくるのでしょう。
善きサマリア人のたとえ
次は新約聖書をみていきましょう。
新約聖書は「福音書」「使徒言行録」「書簡集」「黙示録」の4部から構成されています。福音書はイエスの生涯を取り扱った文書です。
その福音書のひとつ「ルカによる福音書」からイエスのたとえ話の中でも最も有名なものの一つである「善きサマリア人のたとえ」を紹介しています。
イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下ってきたが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。
レビ人もその場所にやってきたが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。」『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』
さて、あなたがたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法学者は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」
この話に出てくる司祭、レビ人、追いはぎに襲われた人はみなユダヤ人です。そのユダヤ人に差別されていたサマリア人がそばに来て、その追いはぎに襲われた人を憐れに思って宿屋に連れていき、介抱したという話です。
司祭はユダヤ教の聖職者、レビ人も当時のユダヤ人社会において高い地位に属する人達です。
この物語は、私たちの隣人に対する考え方を返答させるものだと思います。
たとえば、どこまでが日本人か、アジア人か、というふうに、隣人の範囲を確定しようとする仕方で自分の仲間が誰かを考えるのではなく、自らが主体的に。自分の助けを必要としている人の隣人になっていく。
このような在り方をイエスは語っています。(中略)
「隣人」とは、私たちが誰かに向かって心を開いて主体的に関わることによって初めて真に存在し始めるものだと行っていいかもしれません。
私たちAAメンバーにとって「隣人」とは誰でしょう。
それは、今苦しんでいるアルコホーリクであり、身近な家族、職場、地域の人達のことではないでしょうか。自分は周りの人たちの隣人となっているかを問いかけたいものです。
いまあなたがすべきことは、いちばん人の役に立てるような場所にいることだから、助けが必要とされているところへは、どこへでもためらわずに行かなければならない。そういう用向きのためなら、地上の最もすさんだ場所でさえ、足を向けることをちゅうちょすべきではない。
まとめ
この本にはこの他にも「アブラハムの物語」「放蕩息子のたとえ」「エマオへの途上」等の聖書の文書を取り上げていますし、アウグスティノスの『告白』については3章全てを使い解説しています。4章ではアッシジの聖フランシスコを取り上げています。巻末にはさらに学びを深められるようブックガイドがついています。
『諸相』スタディでは参考文献集をアップしています。
旧約聖書 ヨブ記
イミタチオ・クリスティ
アジジの聖フランシスコの小さき花等
こちらの文献からピンときたものを読んでみるといいでしょう。
次回もお楽しみに。
参考文献
AA(2003) 『アルコホーリクス・アノニマス』AA日本出版局訳 ,AA日本ゼネラルサービスオフィス
山本芳久 (2021) 『キリスト教の核心をよむ』NHK出版