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共感という幻想
昨日はバンド仲間との忘年会でした。そこでのやり取りから考えた事を書きます。
飲み会にもいろいろあるけど、仲間との飲み会が1番ほっとするよね、ところで普段はどうしてる?みたいな話題から会社の接待でカラオケとか歌うのが嫌だ、でも割り切ってやっているという話になりました。
そこで随分昔に、あるzineで読んだテキストを思い出しました。詳細は覚えていないけど、カウンターカルチャーだとかオルタナティブな生き方を標榜している自分も、普段は接待でカラオケを歌う。みたいな内容だったと朧気ながら記憶しています。
何かに敗北しているのだと
何と戦い、敗北しているかは置いといてそのテキストにとでも共感した事を覚えています。
そうだ、これは自分の事を言っているんだ。そんな思いでした。そこには、痛みと共にある種のカタルシスもありました。
共感とは癒しと共に心の酔いももたらすのです。
今、振り返ると社会に出れば、自分の周りの小さなコミュニティでの価値観は他者にとっては何の意味も持たず、違う現実を生きている他者同士が折り合いをつけ、なんらかの共通項を見つけて生きているという当たり前の現実を受け入れない自分がありました。赤ちゃん閣下か笑
バンドマンがカラオケが苦手という話は、あるあるだけど、それを受け入れてしなやかに生活している後輩をみて、自分は随分と甘ったれだったな〜 (遠い目)
僕は自分と同じ悩みを持つ人に共感し、その酔いの中に耽溺していた事が今はわかります。
その結果はさらに多くのアルコールを必要とした生き方を選ぶ事になりました。
考えは行動を導き、その結果からその考えは有用であったかを常に検証する営みの中に真理は生まれる。諸相で学んだプラグマティズムとは自分を見つめる道具なんですね。共感には癒しの効果がある事は否定しません。しかし、使い方次第では自分にしか関心を持たない考えを生み出すという結果をもたらす事はこれからも考えていきたいと思います。
そんな事を考えた週末でした。素面で飲み会に行ける様になった事、すっきりとした頭で考える事が出来る事を、感謝したいと思います。